今日の福音は、イエス様とニコデモとの対話の一部分です。ニコデモはイエス様の公生活の初期に、イエス様に出会ったようです。彼はイエス様と同じくガリラヤ出身のファリサイ派の人で、イスラエルの議員の中の一人でもありました。その立派な人とナザレの大工であったイエス様との出会いは、当時としては珍しい風景に違いありません。しかも、それはニコデモ自身がイエス様を訪ねてきたことで、彼にとってはそれほどイエス様のことを気にしていたとも思われます。それは彼がイエス様を呼ぶ時の言葉からも分かりますが、その時彼はイエス様を「ラビ」、すなわち、「先生」と呼んだのです。彼は、イエス様は神様から遣わされた方で、イエス様の様々な徴は神様が共におられることの証だと告白しました。それから始まったイエス様のお話は、正直言うと、理解しにくいです。なぜなら、ニコデモの質問とは全然関係のないことをおっしゃっているような感じがあるからです。ということで、今日は逆に、イエス様の御言葉からニコデモの質問、彼の聞きたかったことを調べてみる形で説教したいと思います。

先ずは神様の愛のことです。イエス様は昔モーセが荒れ野で上げた蛇について話されました。その時代、イスラエルの民はエジプトから救い出されて荒れ野の道を辿りながら、食べ物や水、衣服のことなどで、繰り返し神様を試しました。それに怒って、神様は炎の蛇を送って多くの民がその蛇に噛まれて死に至らせたのです。それを見たモーセは神様に民を救ってくださるようにと祈りました。すると、神様は青銅で蛇を作り上げ、蛇に噛まれた人がそれを見たら死なないようにと、取り計らってくださいました。つまり、モーセが上げた青銅の蛇は民の罪とそれに対する神様の厳しい裁きを表すものだったのです。イエス様はそれを思い起こさせながら、ご自分の死を前もって示され、神様が独り子の死を通して世を救われることを教えられました。要するに、モーセの蛇は人を殺すために送られましたが、イエス様は人を救うために遣わされました。神様は独り子であるイエス様を十字架に上げられるほど世を愛しておられるということでしょう。

次にイエス様が言われたのは、闇と光、また、人間の行いと神様の御業についてです。ここで、イエス様はご自身のこと、すなわち、ご自分を通して成し遂げられる神様の救いの御業を信じる人と、信じない人についておっしゃいました。信じる人は裁かれなく救われますが、信じない人はもうすでに裁かれているということです。信じる人は真理の光、つまり、十字架に上げられ、輝いているイエス様に向かって進んで行き、そのイエス様を通して表わされた愛の生き方を学んで、それに沿って生活します。その結果、彼らは神様の救いの御業に与り、自分の行いが自分のことではなく、神様の導きによってできたことを表します。しかし、イエス様のことを信じない人は、神様の愛と慈しみによる救いを信じないばかりか、むしろ、自分たちの罪や過ちがあらわになることを嫌がり、その十字架の光を拒むのです。彼らは神様の慈しみと愛から離れて世の中のことに拘り、イエス様によって示された真の生き方に従おうともしないでしょう。彼らは自分たちの生き方が正しくて確かだと思っているのです。彼らは自分たちが歩んでいる道が、神様の道とは異なる罪と悪への暗い道であることを認めたくないでしょう。そういう人たちの目には、信じる人たちの道が暗く見え、自分たちの道こそが明るい道だと思うに違いありません。しかし、自分たちが拘っている世の中のこと、例えば、富や権力、現世的な成功などはどうやってなし得たことでしょうか。それは欲心や欲望、そして、それから起こるはずの争いや戦いの実ではないでしょうか。彼らはそれを得るためにどれほどの人々を犠牲にし、また、彼らが涙や苦しみの中で日々を過ごさねばならないかについては気づかず、ただ自分の考えや自分のやり方に捕らわれているのです。イエス様はその闇を照らし、神様の真の光を照らすために来られ、神様の愛と慈しみに従って生きることを、強く教えてくださったわけです。併せて、十字架に高く上げられて、その道の正しさを証しし、ご自分を信じるすべての人をその十字架のもとに集めてくださったのです。

ところが、不思議なことに、福音にはニコデモが言ったはずの質問が書いてありません。つまり、イエス様がわざわざこうおっしゃったということです。どういうわけなのか分かりませんが、この謎のようなイエス様の話からわたしは、イエス様はニコデモが問いかけたかったことをすでに知っておられたのではという風に考えてみました。それは「神様が本当に人間を愛しておられるのか。」ということと、「それならば、なぜ、悪と罪ははびこり、むしろ、それを行う人が幸せを味わっているのか」ということだと勝手に考えてみました。でも、もしこれが本当だったら、私たちはイエス様の御言葉を通して、聖書の大事なテーマに近づくことができるようになります。すなわち、神様の存在と悪や罪の存在との間の矛盾です。つまり、なぜ、善なる神様は悪と罪がはびこるのを許しておられるのかということです。結論から言えば、それは絶対にそうではありません。神様はただ、愛と慈しみをもって耐えておられるだけです。神様はすべての人がイエス様の十字架の意味を悟り、その聖なる犠牲による救いを素直に受け入れて、悔い改めることを望んでおられるのです。イエス様はその神様の望みを叶えるために来られましたが、その務めを終えた後、それを教会に委ねられました。それは教会の人々、つまり、私たちも神様の救いの御業に与り、私たちを通してその御業が続けられるようにするためです。神様のその救いの計画が完成される日まで、世の中に属している人がどれほどはびこって行くのか、また、その闇がどれほど暗いかは分かりません。しかし、イエス様を信じている人たちはすでに光を見つけているので、その光に従うべきです。それは世を滅ぼす為ではなく、救う為に遣わされたイエス様に倣って、愛の務めを果たすことでしょう。神様の慈しみと愛を十字架上で証しされたイエス様を信じると言いながらも、愛の道を歩むことをためらうことは私達にはふさわしくありません。

さて、ニコデモがイエス様のところを訪ねてきたのは夜のことでした。それから彼は議会でイエス様を弁護し、イエス様の葬儀の現場にも共にしました。彼はイエス様と初めての出会いを通して、真の光を見つけたのでしょう。そして、世の中の暗闇に負けず、神様への信仰と希望と愛とを強く抱き、イエス様に従う人となったに違いありません。世の中の暗闇が濃ければ濃いほど、イエス様の光はもっと輝きます。その光に導かれたニコデモのように、私たちもひたすら、神様とイエス様に導かれ、また、従う人となるべきです。そういうことを心に留め、信者の皆さんにふさわしい恵みが与えられるよう、お祈りいたします。

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