CJC06

神さまを見つける時

聖書を読むとき、「捜す」、「見出す」、「見つける」、「求める」という言葉とぶつかる場合が随分あります。今月は、皆さんとこれについて、共に考えてみたいと思います。

昔、ある弟子が師匠を訪ねて、次のような話をしました。「先生、私は神にお会いしたいと思います。その方法を教えてください。」すると、その師は何も言わず、弟子を見て、にっこり笑いました。弟子は毎日、師匠を訪ねてきて、「ぜひ、神にお会いしたいと思います。その方法を教えてください。」と願い続けました。


そんなある日、師匠は弟子と一緒に川に行きました。二人とも川に入ったところで、師匠は弟子の頭をつかんで、急に、その頭を水の中に深く沈めてしまいました。
弟子はしばらくの間、もがき苦しみました。そして息も絶え絶えになり、死にそうになったその時、師匠は、彼の頭から、手を離し、こう言いました。「あなたが水の中に沈められていた時、あなたが最も大切だと思ったのは、何だったのか。」弟子は息を切らし、「空気でした。酸素でした。私は息が詰まって死ぬところでした。」と言います。
すると、師匠は再び言いました。「うんそうか。それでは、あなたにとって、神も、空気と同じくらい、あれほど大切だったのか。もし、それほど神を大切に思い、熱心に探しているのなら、間もなく、その方にお目にかかるようになるだろう。しかし、そんな切実な思いをも持たず、ただ言葉だけで、神を探しているのなら、決して、あなたは神に会えないだろう。」

私たちの信仰生活における信仰体験を妨げるものとして、ここで、次のような二つの点について、考えてみたいと思います。一つは神に対する切実さ、もう一つは、私たちが自分自身で勝手に描いている神の姿だけを探しているのではないか、という投げかけです。
私たちは、果たして、どれほどの思いで、神を探しているのでしょうか。また信仰生活の中では、自分の必要に応じて、神を見いだそうとしてはいないでしょうか。
何よりも最も必要とする対象が主なる神であることなのか、それとも、神は、いつも、様々な生活空間に押し流されている方なのか、皆さんはどうでしょうか。

少し極端な考えかもしれませんが、神に対する優先順位が一番から二番に、移り変わってしまう信仰であれば、必ず三番、四番となり、そして、いつの間にか、生活環境の中で、優先順位最後となり、ましてや、信仰がアクセサリー化されてしまう恐れもあるのです。
神に向かう懐かしさ、愛、大切さ、必要性がなければ、その方との間柄から、ますます遠ざかるに違いないと思います。
『主を、求めよ、そして生きよ。』 -アモス 5,6 -

教会だより「二十六聖人」平成26年6月号巻頭言より