夢のような「カトリック二俣川教会」の誕生

牧野

今から60年前の二俣川は 横浜駅から相鉄でチンタラ30分も掛かる不便な原野だった。当時の相鉄は昔の市電並みの各駅鈍行だけ。敗戦後9年目の昭和29年(1954)、初めて私が鶴見から二俣川を訪れたとき、どえらい田舎まで来てしまったという強い印象を受けた。

50周年記念に寄せて②-1昭和39年、私は保土ヶ谷区川島町の県営アパートに転居した。上星川駅までの交通機関は路線バス、それも日曜日は2時間に1本の陸の孤島。徒歩でも駅まで30~40分は掛かり辟易していた。当時、最寄りのカトリック教会は京急黄金町の末吉町教会。朝からミサに出掛けても帰宅は夕方。話し掛ける仲間は皆無だった。その年、ミサ後に思い掛けない朗報に接した。「二俣川に新しい教会が建つ。」というのだ。新教会誕生までのいきさつを何も知らない私は、単純に二俣川なら往復時間の苦痛から開放されると喜んでいた。

(昭和39年:1964年 カトリック二俣川教会前に立つドバール神父様)牧野撮影

新しい教会には聖堂が無く、建物は写真のように司祭館と集会室だけだった。平屋の集会室が聖堂を兼ねた。ミサの時間は板張りの床に座布団を敷き、皆正座した。それでも40-50人が限界だったが、少人数故に親しい仲間が増えた。主任司祭のドバール神父様はフランス人だが気さくな人で、いつも笑顔を絶やさなかった。勿論、信者達から慕われ、家族的な教会に育っていった。初代教会委員長は鶴ヶ峰の関忠博さん。ドバール神父様の指導で地区毎に何回か家庭集会を開いた。鶴ヶ峰地区はいつも関さん宅が定番で、参加者は互いに親しくなった。ドバール神父様はこのようにして各地区を走り回っていたのである。

50周年記念に寄せて②-2当時の聖歌伴奏はベビーオルガンで、奏者は青木芳子さんと児玉さん。私は、熊本洋さん(後のカトリック新聞編集長)、矢島惣平さん(弁護士)と共に教会委員になった。

主任司祭二代目は,やはりフランス人のルヴェール神父様で、昭和45年(1970)私が二俣川に転居した時、我が家の地鎮祭をして下さった。続く原木神父様は音楽好きで、二俣川教会学校の小学生希望者からなる「聖ミカエル合唱隊」の育成に援助を惜しまなかった。聖ミカエルは原木神父様の洗礼名から頂いた。続くバーク神父様はアメリカ人だが、ドバール神父様と共通点が多かった。それは「いつも笑顔で笑い声が絶えない」こと。二俣川教会はこの後も伊藤神父様・細井神父様等々の立派な神父様に恵まれ、初期聖堂、現聖堂を建立しながら堅実に成長を続け、今では国際色豊かな開かれた教会になっている。

今から30年前の昭和59年(1984)、カトリック二俣川教会創立20周年のお祝いにドバール神父様とルヴェール神父様をフランスからお招きした。その歓迎会でミカエル合唱隊が感謝のコーラスを捧げた。その時の両神父様と子供たちの写真は私の宝物である。

それから13年後の平成9年(1997),二俣川教会巡礼団が仏伊巡礼を企画した。その時私はドバール神父様とルヴェール神父様に会いたい一心で参加した。バーク神父様が団長だったので、それはそれは楽しい有意義な巡礼となった。その時 私達はシャンベリーでドバール神父様・ルヴェール神父様との久しぶりの再会を喜び合った。二俣川教会の大恩人である三人の神父様。そしてその三人を取り巻く巡礼団一行の集合写真をご紹介する。

50周年記念に寄せて②-3(左から ドバール神父様 バーク神父様 ルヴェール神父様)

 

 

 

 

50周年記念に寄せて②-4(二俣川教会仏伊巡礼団一行:フランス・シャンベリーにて:ドバール神父様は最後列で顔だけを出していた。)

 

フランスのご自分の土地を売却し、二俣川に教会の種を蒔いて下さったドバール神父様! いつまでもお元気で 私たちを見守っていて下さい。

教会だより「二十六聖人」平成25年9月号より