二俣川教会献堂時代の思い出

二俣川教会の献堂50周年を迎えるに当たり、献堂当時を知る私にとって感慨無量であり又喜びを深く嚙みしめています。初代のドバール神父様の下で(昭和40年9月21日)第1回の教会 委員会が開かれ、微力の私が委員長を勤めさせて頂く事になり、二代目のルベル神父様、三代目の伊藤神父様在任中の昭和48年5月まで引き続き委員長を勤めさせていただきました。

献堂時は、第二バチカン公会議という、教会大改革の方針が実施に移され始める時期でした。 それまでは要理神学で育てられた信仰で「信徒のつとめ」を守り、日曜日にはミサに与かり、教会の仕事は「お手伝い」で、私などは、神父様の衣の裾をしっかり握っていれば、そのまま天国に連れて行って下さるという消極的安易な信仰でした。それが「教会は神の民である。信徒も又、キリストの 〝司祭職、王職、預言職にあずかる者〟でキリスト神秘体の為に、分に応じて活き活きと活動しなければならない」とされました。ミサもラテン語から日本語になり、信徒も大幅に参加するようになりました。

当時聖堂は、司祭館の信徒集会室兼用で、椅子はなく床に毛布を敷いたり座布団に座ってミサに与かっていました。転入されて来たある信者の方は「この教会は自分の家のような気がします。何かお役に立つ事があれば」と言われましたので、当時懸案になっていた「教会報」を作りたい、安上がりでと申し上げたところ、ガリ版刷りでよければと進んで引き受けて下さいました。手造りのガリ版刷り「教会報」は、感謝と暖かみの中で皆さんにお届けできました。当時の皆さんも全く同じ気持ちで教会の仕事、行事を進んで実行して下さいました。他教会の方からも時々、家庭的で活き活きした教会ですねと言われました。

「インド救援募金」では、駅々で赤い羽根募金のように、神父様も我々も未経験でしたが呼びかけをし、教区で一番の募金額があり、司教様からお褒めのことばを頂いたと、神父様から皆さんに労いのお話がありました。又バザーのチラシ配りをしたり、ミサの信徒の参加をどう実施するか等、信徒使徒職の実践にも心をくだいていました。

ドバール神父様の一番の願いは、独立の聖堂の建設でしたが、そのほかにも地下納骨堂建設、幼稚園の新設(調査にお伴をした)等考えておられました。皆様ご存知と思いますが、二俣川教会の土地と旧建物(司祭館、信徒集会所、聖堂)はドバール家の遺産で出来たもので、荒井司教様(当時横浜教区長)が公会議終了後、リヨン近くに住んでおられるご両親にお目にかかった折「見渡す限りの広大な土地を売ったのに、600坪程の土地しか買えないなど、とても信じられない」と地価の違いを納得されていませんでしたが、司教様の話でやっと信じられた由でした。 独立の聖堂(かまぼこ型)の地鎮祭が、昭和43年3月24日ドバール神父様司式で行われましたが、ご病気静養のため、同年4月2日フランスに帰られました。積極的情熱的に何事にも当たる神父様でした。

翌日、二代目ルベル神父様が着任されました。当時、左近山団地の入居間近で、5000戸の大団地です。新しく来られる信者をどの様に迎えたらよいかを、毎朝のミサ後、朝食をご馳走になりながら、巡回教会について話し合ったことなど、懐かしく思い出しました。左近山の家庭会には、お供しました。大変情の厚い、穏やかな方で、信徒一人一人に細かく心配りなさっていました。昭和44年9月30日、一年余りでしたが川崎浅田町教会に転任され、昭和46年に帰仏されました。 昨年9月、リヨンにドバール神父様をお訪ねしました。87歳で杖をつきながらもプラットホームまで出迎えに来られ、二俣川教会創立時を思い出し涙が出るほど感動し長い時間抱き合いました。 ルベル神父様は数年前帰天されました。帰仏後、再来日の折、頂いた故郷シャンベリの街並みの絵を眺めながら追悼しています。

50周年記念に寄せて④   (ドバール神父様と37年ぶりの再会 平成24年9月9日リヨンペラーミュ駅にて)

教会だより「二十六聖人」平成25年11月号より