カトリック二俣川教会は、今年で献堂50周年を迎えます。
教会の月刊広報誌『26聖人』で連載中の、”50周年記念に寄せて”の記事を、ご好評により、当ホームページにも掲載することとしました。

この連載は、二俣川教会の信徒が、50年前の当時を思い出して書いた回顧録です。
ぜひご覧ください。

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ドバール神父さんと最初の二俣川教会などの昔話

猪原

神父さんとの最初の出会い

北九州小倉教会で19才の時に洗礼の恵みをうけた私は、翌1950年に、JOCカトリック青年労働者連盟のベルギーでの国際大会に、日本のJOCを創められたパリ外国宣教会のジ・ムルグ神父さんと共に、参加させて頂きました。

当時日本は敗戦で、米軍の占領下にあり、旅券(パスポート)をとるのも大変でしたが、外国の査証(ビザ)、とくに長期滞在の査証をとるのは、とても大変でした。その都合で、ベルギーをいったん一週間ほど離れて、イタリアに行き、改めてベルギーの長期滞在査証をとることになりました。当時、日本の在バチカン外交官をされていた金山政英氏のお世話で、バチカン内で、宿泊させて頂きました。シスチナ礼拝堂の有名な壁画などは、未だ大修復前で、暗いものでした。そして、当時の布教聖省(今の福音宣教省)長官のピエトロフマゾ二ビオンディ枢機卿から堅信の秘跡をうけて、ペトロという名前を頂きました。このとき、日本人がローマに来たということを聞き、これから日本に派遣される可能性があるというプラドー会のフランス人ジョゼフ・ドバール神父さんが、訪ねて来て下さいました。

その後、来日され、言葉の関係で、フランス人が主任司祭であった横須賀三笠教会の屋根裏部屋に住まわれたとき、またお会いしました。日本語を勉強中でした。「堂春譽世夫」という名刺を作っておられました。

 

最初の二俣川教会

ご母堂様の資産で、最初の二俣川教会の土地の選定と購入や建物の建設などの詳しい事情は、神父さんを助けられた笠原健次氏が、よくご存知です。

家内の啓子(ハンガリーのエリザベト)と長男の正浩(使徒ヨハネ)の私たち三人家族が、東京の大森から移ってきたときは、神父さんから、「あなた方が40人目だ」言われました。長女和子(セシリア)がこの教会で最初に洗礼の恵みを受けた者となりました。当時は、木造の家で、一階が聖堂とお手伝いさんの小さな居室で、二階が神父さんの住まいでした。最初の婦人会長さんたちが、たくさんの座布団を作ってくださって、硬い板の床にそれを7敷いて、ミサにあずかりました。後に次男義浩が神父さんのヨゼフというお名前をいただきました。petit Joseph(可愛いヨゼフ)と呼んで下さいました。

教会では、金曜日に肉を食べないという規則の厳しい時代でした。木曜日にカレーライスを食べて、金曜日に歯の間に残った肉を食べたと心配する信者もいたほどです。「カレーライスが大好きな神父さんは、「日本のカレーの一体何処に肉があるのですか、あんなものは肉とは言えませんよ」と笑われました。社会生活や家庭生活の上で、肉を食べたなら、形式的な食べるとか食べないではなく、お祈りや福祉活動をする方がよいということを、こんな昔におしゃっていました。

余談になりますが、2005年に、二俣川教会の佐々木美津子さんのお世話で、「ルルド巡礼」が行われたとき、途中参加をする予定でしたが、モンペリエ駅のホームでの事故で、家内が負傷し、トゥルーズのホテルから、救急車で、遠いサンジャン郊外のユニオン病院に緊急入院して、大手術を受けました。このとき、ドバール神父さんは、ルルドからリヨンへの帰りに、わざわざ寄り道をして、見舞いの品をつめた大きなトランクを抱えて、見舞いに来て下さいました。二人部屋でしたので、同室の女性患者さんにも、親しく話されました。信者であるこの女性は、祝福を受けて、非常に喜んでいました。そして、神父さんは、病院内のいろんなところで、医師、看護師、介護士、事務、患者の皆さんに親しく話しかけられました。その後しばらくの間、病院内で、優しい神父さんのことをいろんな方が思い出して話していました。

労働司祭として仕事にオートバイで冬の寒空でも、家庭訪問などの活動をして体調をくずし、フランスに帰国されました。その後、一息ついてから、有名なリヨンのフランス国立統計経済研究所に就職されました。ここでも大活躍で、部内でも、外部の人々からも、高い評価を得ておられました。そのころ、本当の「司牧」のためには、社会生活の中に深く入って、身をもってキリストを証しなければいけないと、いろんな形の「労働司祭」が生まれていました。

しかし、こうした司祭には、困難や危険がつきまといました。やがて、たくさんの「労働司祭」が教会の指示や自主的に、活動停止や解散することになりました。しかし、プラド―会は、全く問題がなく、活動を続けました。リヨン日本人センターの活動などで叙勲ドバール神父さんは、リヨンと横浜市の姉妹都市締結にも、尽力されました。さらに、「日本人センター」を設立し、日仏交流の発展に貢献されました。センターは、たくさんの会員を持ち、いろんな講座を開いています。当時のパリの日本文化会館館長の磯村尚徳氏も絶賛されました。ドバール神父さんは後輩に道をゆずり、名誉会長となられました。こうした功績で、2000年に、日本政府から叙勲されました。ドバール神父さんは、ユーモアがあり、優しい神父さんです。

以上の記述で、誤解や記憶違いで、間違っていましたら、ご容赦下さい。

教会だより「二十六聖人」平成26年2月号より