二俣川教会始めの歩み

笠原

1   挨拶
皆さんこんにちは、この教会が間もなく献堂50周年を迎えるにあたり、教会の始めの歩みについて話をする様に仰せつかりました、笠原です。
これからお話しすることは、皆さんがすでにご存知のこともたくさんあります。また、私の記憶違いもあると思います。そこは、皆さんの記憶が正しいのだ、ということでご理解いただきます。

尚、この話をすることにあたり、旧知の2人の方(金井さん、癸生川さん)の助言をいただきました。ありがとうございます。
2   二俣川駅から教会周辺の説明
始めに、1950年代の二俣川駅から教会周辺の様子ですが、二俣川駅は北口のみで、ホームに沿って二俣川が流れ、南口側は約10メートル位の絶壁でした。
現在の南口バスターミナル辺りは、畑だったそうです。現在の西友辺りは主に松林のなだらかな傾斜の丘でした。
バス通りの信号の先の万騎が原住宅地の造成があり、それから、教会側斜面の造成が行われました。この斜面は、相鉄分と地主分があり、広い部分はほぼ地主分でした。
3   ドゥバール神父様とプラド会について
次にドゥバール神父様について簡単に説明します。神父様は、日本に来られたプラド会司祭3人の中の1人です。フランスで出来たプラド会を一口で言いますと、小さな人、弱い人を助けることを目的とした、労働司祭を含む司祭集団です。
神父様は、最初に末吉町教会助任、次にフランス語の出来る司祭の所で日本のことを勉強したいと言うことで、岩永神父様のいらっしゃる川崎浅田教会の助任としてこられました。私はそのとき初めてお目にかかりました。
神父様は、ある時、私が勤めていた会社の工場を見たいと希望され、当時外国人が工場に立ち入るなど出来ないことでしたが、カトリックの手づるを使って許可を取り、案内したりもしました。
その後、司教命により、保土ヶ谷教会助任となられました。

4   教会創り
保土ヶ谷教会時代、相鉄線には駅はたくさんあるが、教会がない。
遠いところから来る信者たちが、信仰を守るために苦労しているのを見て、教会を創ろうと決心されます。
教会を創るには、たくさんのお金が必要です。お金を作るためにフランスに帰られ、お父様の広い土地をお金に換え、妹さんの事故の補償金まで持って、再び日本に来られました。
私は、1964年6月始めに、神父様から「会いたい」と連絡があり、二俣川駅北口で会いました。 「教会を創りたい、信者の信仰を守り易くするためにも教会を創りたい」と、熱い口調で語られるその姿に感動し、頭の下がる思いでした。
当時、大和にあった 「少年の町」を拠点に土地探しが始まりました。土地や場所があっても、「教会を創ってください」という場所はないんです。こちらが「ここがよさそう」と言う場所は、地主が「だめ」。神父様は信者が楽に来られる駅に近いところをと考えられ、最終的に買うことの出来るこの場所に決まりました。
横浜教区として、この教会が始めての建設だったので、工事は司教館と業者の契約で進められました。途中変更や追加工事など、業者の一方的なところがあり「おかしい」とアピールしても、「契約があるから」と押し切られ、悔しい思いをしました。
電気の引き込み工事では、東京電力から「電柱から建屋まで距離が長いので追加工事費が必要だ」といわれ、東電に顔の効く人に頼んで無料で工事することで話が決まり、神父様に報告したところ喜ばれるどころか「フランスは地下配線です」とこだわられ、「ここは日本です」とやりあいましたが、諦めました。建築業者に「5万」と言われ支払いましたが、実際に工事に来た人に聞いたら、「2万5千円で請け負った」と言われました。神父様は建築の専門家ではないので、無理からぬ所がありました。

5   家庭でのミサ
8月頃 保土ヶ谷教会の日野神父様より二俣川周辺の信者名簿を頂き、主に家内が訪ね歩き「二俣川に教会が出来るよ」と知らせ「エー本当 どこに?」「うわぁ嬉しい」など、福音の訪れを知らせることになりました。
ドゥバール神父様より「家庭でのミサをしましょう」と話を頂き、9月より始めるべく準備をしました。
お知らせするにも、今のように簡単に出来ません。電話もない家が多いのです。そこで、ガリ版を切って案内を作り家内が配り歩き交流しました。
家庭でのミサは机を祭壇とし、10名前後で捧げ、さながらキリスト教会の始まりを思い起こさせるようでした。
私たちは、保土ヶ谷教会に行くために、バス路線は有ったそうですが、節約のため子供を抱き、手を引き、星川駅から坂道を上り教会に行く苦労が無くなったことなど、神父様に、感謝、感謝でした。
この年のクリスマスミサは、30名程でお祝いし、新教会への期待と喜びに溢れていました。

6   新しい教会への準備として
まず信者同士で資金を出し合い集めました。必要なものをリストにし、買う物、作る物に分け、女性達は、祭壇布始め、いろいろな準備に力を発揮してくれました。
私は休みを利用して、神父様と東京四ツ谷へミサ用品の品定めや、祭服の注文 購入などで、数回出かけました。
神父様は、5万円のミサ典礼書が欲しく、ドイツ人の店員に「安くしたら買うから」と、フランス語とドイツ語でガンガンやり合うのですが、安くなりません。帰り路にはいつも「あのドイツ人は、けちでだめだ」とぼやいていました。

7   初ミサ
1965年2月5日(金)「日本26聖人の祝日」を初ミサと定め、準備を進めました。オルガン始め、
チボリュウム・カーペット・座布団・等々寄付品を頂き、皆で一生懸命準備をし、初ミサを迎えました。
緊張して初ミサに与り、無事終わって、ほっとしました。

8   終わりに
教会が出来るのは、たくさんの苦労がありますが、それ以上に喜び、嬉しさがありました。
私もそうでしたが、当時住宅ローンの重圧が有るにもかかわらず、資金や寄付金を頂き感謝申し上げ
ます。
この二俣川教会建設という大変なことを、全身全霊を捧げて成し遂げてくださったドゥバール神父様は、電話をするといつも「私の心は二俣川教会にあります」とおっしゃっています。
どうぞ皆様もこの御聖堂に来られたら、ドゥバール神父様を思い起こし、感謝の祈りを捧げましょう。

神に感謝
50周年に寄せて⑤

 

 

 

 

 

 

 

1965年1月27日 「初ミサ」 参加者全員で

教会だより「二十六聖人」平成26年10月号より