随想 祝50周年 Amazing grace ! を重ねて

癸生川

ひと月後には新幹線開業・東京オリンピック開催と日本中が沸いていた1964年9月、中高生の要理開講第一声で、「二俣川に新しい教会が建ちます。この保土ヶ谷教会の子供ができます。うれしいことです。」と、日野久義神父様が発表された。みなで驚きの声を上げた。
偶然にも二俣川は、将来の我が家の転居先であった。不安が一変に消え、喜びに満たされた。

SCAN0015世界中が平和をかみしめたオリンピックも終わり、日本も落ち着きはじめた11月、日野神父様が二俣川教会の定礎式をなさるので、中高生聖歌隊もお供することになった。
それまでに何回か二俣川には来ていたものの、絶壁だった万騎が原方面に出たのは初めてで、こんなに整然と開けているとは思いもよらないことだった。凛と立ついちょう並木も清々しい。

柔和なドヴァール神父様のお出迎えの後、日野神父様は装束をまとい区画されただけの更地と教会基礎の端に据えられた立派な定礎石を祝別された。ここが玄関入り口の右側になることも聞いた。(隅の親石?)本当に美しい光景だった。むろん聖歌隊も思いきり大きな声で加わった。
(当日は土曜日で、参加できたのは二人だけだった。)

待降節、すでに要理4年目に入っていた高二の私は決断のときを迎えた。家の仏事を固く守っている母は、絶対反対するだろうと確信さえしていたのに、なんと「宗教は自由だから」の一声であっさり、この年のクリスマス・イヴに洗礼の恵みを得た。それも二俣川にお供した二人が、この年の保土ヶ谷教会の受洗者だった。

明くる1965年3月1日に二俣川教会が、ルカ荒井勝三郎司教様司式によって献堂された。
誰がこの時、50年後のお祝いを想像しただろうか?  Deo gratias!
ドヴァール神父様が、幼き日にご両親からお話しを聞かれて以来、心に温められてきた「日本26聖人」が守護聖人として選ばれた。

春には自宅の新築工事が始まっていたが、母は手術入院、父は半年にも及ぶ長期出張に。
夏には早、二俣川教会の初めてのバザーが開催された。近隣教会の兄姉と共に出かけ、楽しい半日を過ごした。12月に引越し、二俣川教会の一員となる。

この頃よりいざなぎ景気と呼ばれる好景気とそれに伴う物価高が始まり、米を始めすべてに高騰を招いた。なかでも宅地は暴騰し続け、もう少し遅かったら教会も家も建てられなかったのかもしれない。 さらに二俣川に新横浜駅構想・県の主要機関集中構想が出、また厚木飛行場の国際線ターミナル構想が決まりかけたことで、駅周辺どころか かなり離れたところまで宅地化が進み、朝日新聞の「天声人語」にも載ったほど。従って二俣川の農協貯金高は日本一となり、これは何年間か続いたようだ。

1966年2月荒井司教様によって教会創立1周年記念ミサが捧げられた。このとき司教様が、「二俣川は空気がきれいですね。」と話された。公害問題深刻化の折、司教座聖堂のあるあの山手までも大気汚染が及んだとは・・心が痛んだ。

第2回バザーは、とても印象が強い。御聖堂兼司祭館は、道路から一番奥に建っており、敷地には他に何もなかった。8月の土曜の午後、男性陣がそこに舞台とやぐらを設置した。たくさんの裸電球を提灯のように連ね、せっせとうれしそうに取り付けていらした芹沢源吉さんのお顔を思い出す。
いったい何が始まるのか。夕方突如ロックバンドが光に照らされ、閑静な住宅街に響き渡った。6月にはビートルズの来日などもあり、当時エレキは一世を風靡していたから黙認されたのかもしれない。
(山手教会大聖堂の地下からも、よくエレキギターを練習する音が聞こえていた。)
ポスターを見て「今日はご飯 炊かないで来たの」と、婦人会の五目寿司をご家族の人数分買ってくださったご近所さん。酒屋さん(現在写真館)はビール完売。私達は、お抹茶とお菓子でお・も・て・な・し・の出店をした。子供も多く、縁日のような賑わいだった。

走馬灯のように次々と楽しかった思い出が廻る。中でも一番の感動は、この教会で初めて司祭となられた鈴木勁介神父様の叙階。生まれたばかりの小さな教会で、しかも同い年の方が選ばれたのだから。続いて次々とこの教会に司祭の誕生をいただいていることは本当にすばらしい。
「二俣川教会の司祭召命のために祈ります。」と、約束してくださったドヴァール神父様のお声をその度思い起こす。

制限付きとはいえ海外旅行が自由化されると、海外のニュースも身近に感じるようになった。
インドで大水害があり、その救援のために教会をあげて募金活動をすることになった。グループごとに相鉄線の駅に立った。私達は鶴ヶ峰の担当だった。何しろみんな初めてで声を上げるのも容易ではなかったが、時間が経つにつれて大きな声も自動的に出すようになってしまい「インド人もび!・・・」まで言ってしまって、ハタと気付いて止めた。が、次に進める言葉が見つからずに困った。『インド人もびっくり!』 というカレーのキャッチフレーズが、あまりにも浸透している時だった。言ってしまった私も、同行の人たちも、通り過ぎた方々も振り返り、一斉こちらに集中。しかし、静かな緊張の中、見つめる目は温かだった。今でもこうして思い出すと冷や汗・・笑ってしまう。

この経験は後、大いに役立つことになった。御聖堂の建設資金集めに近隣の教会に赴き、主日のミサを受け、次いでバザー券を売った。いくつの教会を巡っただろう。楽しい巡礼となった。
中でも横浜公園の真中にあった大きな教会は、カトリックをはじめプロテスタントの諸派またアメリカ軍の礼拝が時間厳守の交代で行われていた。これは、私達にとって効率的な派遣場所であった。

初めての子供たちの林間学校は、ボーイズタウンでの合宿だった。役員のお父さん方と若者たち数人、子供たちは20人以上いただろう。お決まりのカレーライスを大鍋に作り、お部屋でみんな元気に食べた。夜は、庭で花火大会。その後、大人も子供も一緒になってごろ寝。すぐにグーグー・スヤスヤ。みんなたくましかった。
どこが「林間」?少年の町「ボーイズタウン」は、南林間にあったのだ。今では、懐かしい思い出。

まだ日韓の国交がない中、JOC(カトリック青年労働者連盟)主催による「小さな星 韓国カトリック児童芸術団」の日本公演が文京公会堂で開催された。先輩達から、見に行く者も取り調べを受けることになるかもしれないと、ご注意つきの公演に皆ひるまず出かけた。
私達の心は、「人類みな兄弟 We shall overcome !」でいっぱいだった。韓国の子供たちの洗練された太鼓や踊り、そして美しい衣装に魅せられて帰った。恐れていたことは、その後もなかった。

ご聖体行列したことは、芳しい思い出。ミサの後、十字架・ご聖体を先頭にして全員列になって聖歌を謳いながら教会を出て車道の向こう側に渡り、駅方面に進んだ。駅前から、教会側の道を上って帰ってきた。道々の出会った方々の反応は測りかねたが、みんなで渡れば怖くない。
主の御名の下で一つになり、信仰宣言を体現できたことの歓びを味わった。その後、祭壇に捧げた一品持ち寄りの食べ物を下げ、高揚しながら分かち合って食べたのは最高だった。

思い出は尽きない。これを50年分書くとしたら、どういうことになるだろう。記念誌を編纂されている方々のご苦労を思う。書いていて自分も今年のクリスマスは特別なものであることに気づいた。
なんという恵み!度あるごとに神様のご計画が隅々まで及んでいたことを感ぜずにはいられない。
それにつけても、日々目の前のことに追われ雑・雑と忘恩に生きてきたことか。改めて、ここで振り返ることができた。さて今日から主と共に、そして主が出会わせてくださる方々と丁寧に過ごしていきたいと望む。

二俣川教会の主任司祭の第一代は、ドヴァール神父様。第二代は、ルヴェール神父様であることは、誰もが知っている。二代目の主任司祭が決まるまで かなりの月日がかかり、その間エドワード・ブジョストフスキ神父様が、主任代行をしてくださっていたことを付け加えたい。
短かったとはいえ その間の師の教えは、若者だった私達に多大な影響を与えている。昨年フランスに帰られるまで、川崎の浅田教会で公害認定患者外人第1号となって苦しみながらも、なお地域の労働者と連帯して様々な問題に奔走し戦っておられた姿に、福音に生きるということを身をもって教えていただいた。
50周年記念に寄せて⑨3因みに この御三方は皆、李神父様と同じプラド会だ。プラド会の創立者福者シュヴリエ神父様のお話も、李神父様からそのうち伺えることを楽しみにしている。歴代の神父様方の教えが礎となって、次の祝50周年にむけ、イスラエルの民である私達の共同体が平和のうちに歩んでいけますように!

プラド会のロゴ(左から馬ぶね・十字架・聖櫃)            心から感謝のうちに

 

第2回バザー風景(1966年8月)

50周年記念に寄せて⑨150周年記念に寄せて⑨2

 

教会だより「二十六聖人」平成26年11月号より