地図大先月、助祭召命を授けられた牧山善彦神学生もそうだが、わが二俣川教会の信徒には牧山姓が多い。ヨゼフ会にも数年前まで牧山のトミさん、ハルさんなど親しく呼ばれた牧山姓の会員が4.5人いたそうだ。
牧山一族の先祖を遡ると寛政年間(1789~1800年代)、迫害を避けるため、長崎外海から集団移住した馬渡島のキリシタン一族にたどりつく。
4年前の5月、平戸の田平教会や紐差教会などを訪ねた翌日、こうした牧山一族のルーツを探るため、私たちヨゼフ会有志の一行5人は、小学校時代を馬渡島で過ごした牧山Tさんの案内で、佐賀県呼子の先の玄海灘に浮かぶ小さな離島、馬渡島(まだらしま)を訪ねた。

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馬渡島キリシタン探訪記

「救命具は座席の下にあるよ」と牧山Tさんが思わずつぶやいた。その一瞬、私は救命具を付けた自分の姿を想像した。大波が船底をたたいているのか、時折「ドォーン」という強烈な音が響いた。この音に何回もビビりながらも船は最後の巡礼地、馬渡島の港へ着いた。名護屋の桟橋を出てからわずか20分、名うての玄海灘の荒波もかく有りなんと思われるほどに、私たちを乗せた小さな連絡船は近づく台風のせいで揺れに揺れた。

madarashima雨の中、波止場には牧山Yさん(牧山Tさんの親戚)が出迎えに来ていただいた。宿に荷を下ろしたが、雨脚が強くなる前に、まずは馬渡島教会へ向おうということになり、牧山Yさんご夫婦の車に分乗して教会への山道を辿った。教会は島の東岸の海を見渡せる山の上にある。狭い山道の脇には所どころ黄色いくちなしの実がなっていた。途中、番所ノ辻といわれる島で一番高い山に寄った。元寇襲来時の陣地だったとか。また幕末には唐津藩が黒船を監視するため、ここに番所を置いた。このあたりは野生のヤギが生息し夏になると一面に山百合が咲き乱れるという。

聖体訪問を終えて聖堂の隣にある司祭館へ向かう。司祭館は民家風の造りだった。荒神父様に珈琲をふるまわれながら、「私は2年前に着任したばかりですが、この島の人々は昔から進取の精神にあふれています。島から出て国内だけでなく遠くはブラジルに移民して頑張っている信徒が多い。どこに行ってもその信仰心の強さと仲間の絆は揺るがない。これは本当に聖霊の働きの賜物です」と熱を込めて話してくれた。またここは昔も今も半農半漁だが、釣りの好適地として観光にも力を入れ、近年は過疎化はようやく収まったそうだ。現在、島の人口は約500人でそのうちカトリックは350人ほどといわれている。

教会を訪ねたあと「聖母園」とか「海の星学園」の跡地を訪ねる予定だったが、雨が本降りになってきたので昼食をとるため一端、宿に戻った。その日はそのまま天候が回復せず外出もままならない。そこでまだ翌日もあるというのに、今回の巡礼行の反省会と称してお昼過ぎから飲み会となった。なにせわが同行メンバーは私を除いていずれもお酒に目がない。おまけに案内の牧山Yさんという方が、まだら焼酎を一升ほど空けても顔色ひとつ変わらないという強者、そのおかげで昔は軍馬の放牧場だったこと、野イチゴ、サザエが絶品で美味しいことなど、いろいろ島の面白い話を聞くことができたようだ。「ようだ」と曖昧なのは、私は飲みすぎて殆ど寝入ってしまってよく覚えていないからだ。しかしながら「この島はいま話題の玄海原発とは10キロも離れていない。もし福島みたいなことになったら誰も島に居られないよ」と話されたことだけはよく覚えていた。

酔い覚ましにと夕方、ひとり近くの波止場まで降りてみた。その途中、突堤のたもとに佇んでいると、80代と思しきお年寄りから不意に話しかけられた。どこから来たかと問われるまま「教会を見に横浜から」と手短かに答えると、とたんに愛想をくずして「こげんところへよくきなさったばい」とか何とか、博多弁が混じっているのか土地の言葉で言われた。それをきっかけに「カトリックだが、当地出身の連れと教会巡りをしている」というと、「そうか、わしもカトリックで「牧山」だが、その連れもやっぱ「牧山」ですか」といわれた。

馬渡島の漁港

かってはイワシ漁で賑わった馬渡島の漁港、丘の上にイワシ御殿の跡が。

そんなやりとりが続いていると、「こんにちは」と明るく挨拶する学校帰りの少年たちが通り過ぎた。その老人は「あの子ら中学を出ると、3分の1は呼子の高校へ進学し残りは外へ出て行って、そのまま島に帰って来ないんだ」という。また島はかつてはイワシの好漁場で大きな網元が4件ほどあった、といいながら「ほれ向こうに見えるのがその網元の家よ、いまは廃墟だが昔はイワシ御殿とまでいわれた大きな家だったで」と懐かしそうに話してくれた。




寛政年間に長崎外海地方からやってきた隠れキリシタン有右衛門の来島によって、馬渡島キリシタンの歴史が始まる。その後迫害を逃れたキリシタンが各地から入植して来た。港を中心とした沿岸部には漁業を生業とする仏教徒が、北の丘陵地には畑作に精を出すキリシタンの集落が点在した。

馬渡島教会明治12年、明治政府公布の「外国人遊歩規定改定」により宣教師の行動が自由になると、神父たちの宣教活動が活発化した。明治13年パリ外国宣教会のぺルー神父による島の最初の洗礼の記録がある。そして翌年最初の聖堂が完成してプチジャン司教の祝別を受けた。その後、この聖堂を昭和4年に対岸の呼子教会に移築し、そこに前日訪れた平戸の紐差教会の聖堂を移築再建した。それが現在の聖堂である。八角のドームを乗せた方形の鐘塔に大きく特徴がある。

ところでわが二俣川でもそうだが、この馬渡島をルーツとされる信者の方々は、ほとんど「牧山」姓である。 そのわけを同行の牧山Tさんに尋ねたところ、Tさん曰く「最初のキリシタン有右衛門の名字が「牧山」であったという記録もあるが、当時の隠れキリシタンが名字を名乗れるほどの身分ではないはずで、これは疑わしい。結局のところ明治政府の「人称布告」で平民も名字を付けてよろしいということになり、馬渡島は馬の放牧場と番所山に代表される島だから、どうも皆が相談して、そこから「牧」と「山」をとって「牧山」にしたのだという説が有力なんだそうだ。ただこれもはっきりした根拠がある説ではない」とのことである。

聖堂内部馬渡島のカトリックについてひとつ特筆すべきことがある。それはこの小さな島にかつて教会が建てた学校があったということである。当時の木村義巳神父様が「信徒の子弟の教育は教会の手で」という強い信念のもとに非常な尽力をされ、昭和22年に小中学校「海の星学園」を開校させた。しかし昭和30年頃から次第にイワシが獲れなくなり、財政困難で学園が成り立たず、昭和38年についに廃校になった。その間15年とはいえ「教育と信仰の一致」という日本では極めて稀で貴重な試みがなされたということだ。日本のカトリック校は殆ど修道会によるもので、一つの教会で運営された学校という例は無いのではないか。因みに同行の牧山Tさんは横浜生まれだが、馬渡島で育ち「海の星学園」には小学6年まで在籍していたそうだ。

昨年の五島、外海に続いて今年も平戸、生月そしてこの馬渡島と多くの教会を巡った。これらの殆どの教会にいえることがある。それは教会は静かな祈りの場であるとともに、地域に根付きコミュニティの大切な場であるということだ。どこでもアンジェラスの鐘がなり、聖母マリア像が人々を慈しみをもって迎えてくれる。久しく忘れられた日本のカトリック共同体の原風景がそこにある。
わが二俣川も、献堂50周年を記念し長年の願いであった「聖母子像」が建立された。本当に喜びに絶えない。
                          ヨゼフ会良き知らせレポーター K.V.