愚かなパウロ

CJC29使徒パウロはキリストのために愚かな人になりました。若い頃、熱心なファリサイ派だったパウロが年を老いて愚かなパウロになったことは、現世的な人間から霊的な人間に変わったことです。論理体系には合わない愚かさです。

1. 神の愚かさ - 世の人の考えでは神様が人間になったことや永遠の方が時間の限界の中に入って来たことは愚かに見えるかもしれません。なぜ死ぬ運命を自ら選んだのでしょうか?愚かなことでしょう。これは私たちに向かう愛です。とてもきびしい愛です。人間の知恵は神の愚かな愛に勝つことはできません。

2. 十字架の愚かさ - 十字架の論理はイエス・キリストが生きて来た論理です。イエスの生き方は最初から最後まで愚かな方でした。馬小屋で生まれたことだけを見ても神様の論理がわかりますね。イエス様に従って行ったのに戻って来るものは単なる十字架でした。十字架を受け入れるのがイエスの論理であり、神の力、神の知恵ではありませんか?

3.  福音宣教の愚かさ - 賢いパウロが愚かな神の福音を話すことはできなかったと思います。賢い人間の言論と知恵ではなく十字架につけられた方のみ考え、その方だけを示されました。これは選択の問題だと思いますが『神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。』(Ⅰコリント1.27) 私たちはどっちを選ぶのでしょう? 世の知恵、賢い論理よりもキリストの知恵、愚かな十字架の論理。 どうでしょう。

(教会だより「二十六聖人」平成25年6月号巻頭言より)