7月3日、教皇フランシスコはサンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」をささげました。以下は祈りの前に教皇が述べたことばの全訳です。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。
 ルカによる福音書10章(1-12節、17-20節)からの今日この主日の福音は、「収穫のために働き手を送ってくださるよう主に」(2節)願い求めることがどんなに必要かをわたしたちに考えさせます。イエスが語っておられる「働き手」とは、神のみ国を伝える宣教者のことです。イエスは彼らを「ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされました」(1節)。彼らの務めは、すべての人に向けられている救いの知らせを告げ知らせることです。宣教者はつねに救いの知らせを皆に告げ知らせます。遠くに赴く宣教師だけでなく、わたしたちも救いのよい知らせを告げるキリスト教の宣教者です。それは、聖霊によってイエスがわたしたちにお与えになるたまものです。その知らせは、「神の国はあなたがたに近づいた」(9節)という知らせです。イエスによってわたしたちは神に「近づいた」からです。神はわたしたちの一人になられました。イエスにおいて、神はわたしたちを治めておられ、イエスのいつくしみ深い愛が、罪と人間の不幸に打ち勝つのです。

 これこそが、「働き手」が皆に伝えるべき「よい知らせ」であり、希望といやしの知らせ、平和と愛の知らせです。ご自分より先に弟子たちを村々に遣わすとき、イエスは彼らに告げます。「まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。……その町の病人をいやしなさい」(5、9節)。これらのことばは、神のみ国は日々築かれており、み国はすでに地上の人々に回心、清らかさ、愛、なぐさめをもたらしていることを意味しています。何と素晴らしいことでしょう。来たるべきみ国を日々、築いていきましょう。壊すのではなく、築いてください。

 イエスの弟子はどんな精神をもって、この使命を果たすのでしょうか。彼らはまず、困難で、ときには敵意に満ちた現実が待ちうけていることに気づかなければなりません。イエスはこのことを単刀直入に語っておられます。「それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(3節)。まったくその通りです。キリスト者の迫害が始まったときから、敵意はつねに存在しています。宣教が悪魔のわざによって妨害されることをイエスは知っておられるからです。したがって、福音の働き手は、イエスが命じたように財布も袋もはき物も持たず、人間が課したあらゆる制約から解放され、イエス・キリストの十字架の力のみを頼るよう努めます。それは、自分の利益や出世、権力を求めるのを止め、謙虚な気持ちで、イエスの犠牲によって行われる救いの道具になることを意味します。

 この世におけるキリスト者の使命は輝かしいものです。それはすべての人に課せられた使命であり、誰も除外せずにあらゆる人に奉仕するという使命です。そのためには、非常に寛大な心が必要ですが、なによりもまず、主の助けを願い求めつつ、至高なるかたにつねに自分の視線と心を向けることが求められます。イエスによって遣わされた弟子たちは、「喜んで帰って来ました」(17節)。この箇所を読むと、教会の喜びがどれほどであっただろうかと考えます。教会が大いに喜ぶのは、司祭――わたしたちがよく知っている小教区の力強い司祭たち――や修道女、奉献生活者の女性、宣教者など、福音を日々告げ知らせている多くの人々の献身のおかげで、教会の子らがよい知らせを受けるときです。わたしは自らに問うと同時に、皆さんにもお尋ねします。「この広場に集まっている若者の皆さんの内、何人がご自分に従うよう求める主の呼びかけを聞いているでしょうか。怖がらないでください。勇気をもって、これらの立派な弟子たちが示した使徒的情熱という導きの光を他の人々に伝えてください。

 おとめマリアの取り次ぎによって主に祈りましょう。天の御父の愛と優しさをすべての人に伝えるのに必要な寛大な心を、教会が決して無くしませんように。

(2016.7.11)