<ノリコ感覚その8> サル年のはじめに

2016年の干支は申(さる)である。干支の時にはこの申という漢字を使うが、申はもともと時刻を表しており、だいたい午後4時頃とされている。音(おん)が同じせいなのだろうが、結構たくさんいただいた年賀状では、申の字とかわいい猿のイラストという組み合わせが圧倒的だった。

DSCN0264うちから歩いて10分ほどの所に「猿田彦神社」があるのを急に思い出して、新年早々に出かけてみた。以前ふらっと来た時よりも、登っていく道がきれいに整備されていて驚いた。数名の参拝者にも会ったりした。本当に小さな祠なのに。ご存じの方も多いと思うが、猿田彦は日本の神話に出てくる神様の一人であり、旅の案内人とされている。また、『日本書紀』の中では、道祖神と結びつけて考えられているという。日本のあちこちにある猿田彦神社が自宅の近くにあったということに感謝!その帰り道、2kmぐらい先にある別の神社にも行ってみようと思い立って、すばらしい好天の中を歩いていった。神社にばかり行くなんて、キリスト教の神様を信じる身でありながらこれはいかがなものかと思いつつ・・・・・。

この2番目の神社で、偶然、近所のご夫婦にお会いした。今年もよろしく!というようなお決まりの挨拶のあと、何気なく、本当なら今頃は教会に行っているはずなんですけどねと言ってみた。言ってみたというより、少し言い訳がましかったなと思ったが。
ところが、「日本人ですからね。お正月は神社でしょう。」とご主人がおおらかに言われたので、そうだそうだと大いに納得して頷いたのだった。冷静に考えれば調子のいい話なのかもしれないが、日本では、四季と冠婚葬祭や行事を大切にしつつ、そこにうまく宗教を取り入れて生きてきたのだなと昔から思っていたし、大学の頃にはそういった書物を読みあさったものだ。調子のいい話、というのは例えば、新年を迎える時には、ここに書いたように神社にお参りして、商売繁盛、家内安全を祈り、結婚する時は信者ではない女性でもベールを被って教会で挙式し、死を迎えた時にはお坊さんにお経を読んでもらって成仏する、などなど。その他、春夏のお祭りやお神輿は地元の神社の後押しがあってこそという気がするし、お葬式や法事はお寺の守備範囲だと一般的には思われているはずだ。つまり、お正月に神社が人々で賑わっても、それを特に変わったこととは思わず、普通のこととして私たち日本人は受け止めている。

DSCN0273新しい年を迎える日本人としては普通だと思うが、我が家でも玄関にはお飾り、床の間等の改まったというか少し高い所には鏡餅を飾り、先祖や主人の両親のお仏壇や信者だった亡き母の祭壇には花やお菓子をお供えした。自分が宗教的にどんな立場にあろうとも、まず一番大切なのは、日本人である限り、日本人が古来から守ってきたものをきちんと伝承していくことなのではないかと思っている。

もちろん、私はキリスト教の信者なので、自分の死に関しては、「病者の塗油」や「許しの秘跡」を神父様にお願いして、何とか天国への道が自分の前に広がっていくようにと心から祈っている。もうそれほど先の話でもないのだから。でも、お坊さんのお経を聞く、或は自分で唱える、または写経をするということで心の安らぎを得られると思っておられる方々は、上にも書いたように、自分の葬儀では僧侶のお経を望むだろうし、そのお経によって極楽へ送ってほしいと願うだろう。今どきは、エンディングノートなどというものがあり、生きているうちに、自分の最期を演出することができる。
書いておいたことを子どもたちがきちんと実現してくれればの話だが。どんな宗教を持っていたとしても、自分が納得でき、まわりの人たちにも失礼のない配慮のある温かい儀式に送られて、天国や極楽や来世へと旅立ちたいものだ。

私は昔から中国の小説である「西遊記」が好きだった。その中に出てくる登場人物では、もちろん三蔵法師がいちばん偉いのだが、何といっても主人公の猿、孫悟空に興味があった。彼は何故かいつも自分が何でもできるすごい猿だと自信たっぷりだったのだが、ある日、筋斗雲(きんとうん)の術を駆使してたくさんの距離を飛び回り、お釈迦様にどうだ!と威張ってみせたところ、彼が何千キロも動いたぞと言って示した軌跡は、お釈迦様の手のひらから1歩たりとも出ていなかったのである。お釈迦様と孫悟空との圧倒的なスケールの違いに驚くと共に、この有名且つ示唆に富む話は、若かった私の心をぎゅっと掴んでしばらく離すことはなかった。

猿つながりで思い出した西遊記だったが、同時に、人間を超えた大きな存在があるのではないかということを考える、とても良い素材だったと思う。「大きな存在」を神と呼ぶのか、仏と呼ぶのか、神話に出てくる神々とするのか、それは個々の人に任されている気がする。でも、昔から巷で言われているような倫理観は、やはりこういう「大きな存在」なくしては語れないと思っている。『お天道様が見てラー』なんて台詞が私は大好きだ。どこで何をしようと、それが良いことであろうと悪いことであろうと、他人が見ていようとそうでなかろうと、そんなことはどうでもいい。私たちはいつだって天から見られていると思えた(気づいた)瞬間から、私たちの神様へ向かう道、正しく生きていく道がどんどん開けていくのだと思っている。

だらだらと書いているうちに今月も終わりに近づいている。でも、「猿」と「神」という二つのキーワードで文章をまとめようと思い、書き続けてきたことはすごく楽しかった。
2016年はどんな年になるのだろう。健康に気をつけながら、今年はもっと書くぞ!と一応誓を立てる私ではある。・・・・・NF