<ノリコ感覚 その9>  第三の命をいただいた日

4月29日(金)は前日の雨から一転して良いお天気に恵まれた。昭和天皇のお誕生日であったこの日は、今は「昭和の日」として新たな祝日になっている。確か、晴れる確率の高い日ではなかったかなと期待しながら、前日は雨の空を見上げて『どうか明日は晴れますように!』と心から祈った。この日の為にいろいろと細かく準備をしてきた人たちは、たぶん何のトラブルもなくイベントが終了することを願っていただろうし、参加したいと思っていた人たちは、とにかくこのお祝いの日を楽しみにしてきただろう。前者に属していた私は、時間をかけて丁寧に準備を続けてきたメンバーの心と力を理解できる立場だったので、自分がその準備会の一人であることに喜びを感じながら、いっしょにこの日を目指してきた。

失礼ながら、私が感じた限りでは、少し前の“主役”の顔にはちょっと不安と迷いがあるように見えた。でも、前日にはすっきりとした顔と振る舞いを私たちに見せてくれていた。しかも、その前の晩は熟睡できたとのこと。彼の母親でも何でもないのに、そんな一つ一つのことが気になったりうれしかったりした。

関係者たちの様々な思いの中、ハレの日を迎えた。上にも書いたように、文字通りの晴れの日になったことは本当にありがたかった。私は外の席だったので、テントの下でモニターに写し出される式の映像をある種の感動を持って凝視していたが、決められた順序に従って式がスムーズに進行する様子はとても素晴らしかった。
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この式のハイライトは、何と言っても「受階者が床にひれ伏す」場面だろう。法王が外国訪問の折などに、到着した空港の大地にキスをする姿をテレビで見たりするが、あれはその大地を造られた神様への尊敬と感謝を表しているのだと私は勝手に思っている。そしてそれに加えて、大地に自分を近づけることで、自分を低くするというか、謙遜の気持ちも表しているのだろうと思う。それと同じような意味が「床にひれ伏す」ことにもあるのだろうか。尊敬と感謝と謙遜。神様を敬う気持ちと感謝、同時にまわりの人々への感謝を忘れず、自分が生きているというより生かされているという謙虚な気持ちを持つことが、受階者の基本姿勢なのかもしれない。

式は続き、新しい司祭が承認されると、司教様を筆頭に参列しているすべての司祭たちが新司祭を温かく迎え入れますよという儀式を行う。これが何ともまた素敵だ。そこにはベテランも若者もなく、生まれた国の区別もなく、今までのどんな経歴も関係ない。『私たちは皆同じ司祭です。あなたを司祭団に喜んで迎えます。』こういう温かい気持ちと姿勢を、一般の参列者の前で表すことは本当に素晴らしいと思う。

DSC00144新しい衣(祭服)を新司祭に着せるのが主任司祭の仕事だとは、私は全く知らなかったのだが、画面で見ていると、身体の大きなI神父が緊張しながら、でも、いそいそと祭服の中に腕を入れて、新司祭が着やすいように頭からかぶせてあげている様子は、とにかく愛情いっぱいですごくほほえましかった。

一日置いた聖母月の最初の日に、新司祭の初ミサがうちの教会で行なわれた。日頃から『家庭的な教会ですね。』という評価をいただいていることが証明されたような、温かさに満ちた初ミサであり、参列者たちであったと思う。入堂の時、いつもなら一番後ろに位置する主任司祭の更に後ろに新司祭の姿があった。このことがまず私に初ミサの意味するところを教えてくれた。

_DSC2747そして、ミサが始まったのだが、新司祭の第一声の何と美しかったこと!!お祖母様もお母様もよく通る美しい声をお持ちなので、期待は高かったけれど、それ以上だった(かな?)。昨年のS教会での式とミサの最後に、当時は助祭だった新司祭の『行きましょう。主の平和のうちに。』という言葉が本当に美しく響いたと、他教会の方が私に言ってくださったことをうれしく思い出した。新司祭の美しい声は、まさに神様からの大きなプレゼントの一つなのだと思った。

ご聖体拝領の時、新司祭は中央の、祭壇に向かって右側に立つことになったのだが、新司祭からご聖体をいただこうとする信者の列が長く続いていたのが印象的で、そんな風に信者側が司祭や聖体奉仕者を選んだりしては申し訳ないと思いつつ、やはり新司祭の列に並ぶ私であった。拝領後、教会学校の子どもたちや青年たちから歌のプレゼントがあった。中には泣きながら歌っている子や青年がいて、こちらも胸がいっぱいになった。新司祭も涙をこらえているようで、主任司祭も「これから30秒間は泣く時間にしましょう。」と粋な発言をされた。その後、ミサに参列した全員が、新司祭から按手を受けたのだが、その間、列を急ぐ人もなく、いつの間にか始まったロザリオの祈りに包まれた聖堂は、世俗から全く切り離された空間になっていた。これもまた、新司祭や私たちに与えられた神様からの贈り物と言えよう。

“主役”が生まれた時、彼はご両親から最初の命をいただいた。どんなにか家族の皆さんは喜んだことだろうと想像する。そして、洗礼を受けて1人のカトリック信者になった時がたぶん二度目の命の日と言える。神学校へ入学した時も、新たなステップを歩み出した日として、大きな節目であったかもしれない。しかし、今回、司祭に叙階されたことほど大きな命をいただいた日はないのではなかろうか。世界中の人たちの祈りに支えられて、彼は重いけれど喜びに満ちた第1歩を踏み出した。さあ、私たちも彼に倣って歩んでいこう。キリストに従う者として、神様のお導きをいただきながら。