CJH31私たちはどれほど幸せなのか?

ある小学生の短い感想文を読んで感じたことです。ある小学校で先生が生徒たちに“飢餓に苦しむ幼い子供が何かを道で拾っている写真”を見せました。そして「私は幸せな人」というタイトルを付け、次のような質問をしました。「皆さん、この写真を見て一緒に考えましょう。写真の中の子供は何をしているのでしょうか?この写真を見て、私はどれくらい幸せな人なのか考えてみましょう!」
先生は飢餓に苦しむ子供と自分たちを比較して、感謝する気持ちを持つことを生徒たちに期待したのでしょう。ところがある生徒は、「この可哀そうな子供の姿を見て、自分がどれくらい幸せなのかを考えるなんて心が痛みます。私は彼らと一緒に食事をしたり、一緒に楽しんだりしなければ、この痛みは無くならないでしょう。」という感想が綴られていました。 自分はどれほど幸せなのか、その問いかけに対するこの生徒の答えに、私は心打たれました。
私たちの社会が持っている幸福の概念とはいったい何でしょう?私たちはいったいこの世で何を見て生きていますか? 何を幸福だと信じますか? この生徒が言う“彼らと一緒に”と言う言葉には、自分だけの幸福は幸福と言えないという気持ちが含まれています。他人との比較や差別化を通じて得た幸福はどれほどの価値があるでしょうか? たくさんのものを所有して無駄に使い捨てたり、他人に自慢したり、人から羨ましく思われることが本当の幸福の条件でしょうか?
聖パウロが「自分は無駄に走っていないか、あるいは走ったのではないか。」(ガラテヤ2:2)ということを識別するためにエルサレムの使徒たちを訪ねた時、その正しさの鍵として与えられた基準は、“貧しい人たちのことを忘れない”ということでした。(ガラテヤ2:10参考)この偉大な基準は、パウロの共同体が個人主義的な異教徒の生活様式に引きずり込まれないためのものでした。それは今までも、また現代においても変わらない重要な基準で、最下層に置かれている人々、社会から捨てられ必要とされないような人々のために与えられたものなのです。神の国、神の御心には貧しい人々のための優先席があります。それは神ご自身が“貧しくなられた”(2コリント8:9)からです。私たちの幸せは貧しい人々を忘れないキリストの共同体と共にあると言えるでしょう。毎晩9時にイエス・キリストと共に貧しい人を忘れないようにお祈りする皆さんに、神の祝福を送ります。アーメン。
教会だより「二十六聖人」平成28年7月号巻頭言より