5月7日(日)の第54回世界召命祈願の日にあたってフランシスコ教皇のメッセージをご覧になれます。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 わたしたちはこの数年、キリスト者の召命の二つの側面について考えてきました。一つは主の声を聞くために「自分自身から出る」よう求める招きであり、他方は神の召し出しが生まれ、はぐくまれ、明らかにされる、恵みあふれる場である教会共同体の重要性です。

 第54回「世界召命祈願の日」にあたり、わたしは今、「キリスト者の召命の宣教的側面」について考えたいと思います。神の声に引き寄せられ、イエスに従う道を歩む人々は、宣教と愛の奉仕を通して兄弟姉妹に福音を伝えたいという、抑えられない願望を自らの内に容易に見いだします。すべてのキリスト者は福音宣教者とされています。キリストの弟子は実際、個人的な慰めとして神の愛のたまものを受けるのでも、自分だけを高めるよう招かれているのでも、経済的な利害に気を配るよう求められているのでもありません。ただひたすら神に愛されていることを喜び、その喜びによって変えられ、その体験を自分だけのもとに留めておけないのです。「弟子たちの共同体の生活を満たす福音の喜びは、宣教の喜びです」(教皇フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』21)。

 このように宣教という使命は、キリスト者の生活に飾りのように付け加えられるものではなく、信仰そのものの核心です。主との結びつきには、みことばを告げる預言者として、また神の愛のあかし人として世界に派遣されることが伴います。

 たとえ自分の弱さを痛感し失望していても、わたしたちは無力感に襲われたり、悲観主義に陥ったりせずに神を仰ぎ見るべきです。悲観主義は、わたしたちを単調で色あせた生活の消極的な傍観者にするだけです。恐れてはなりません。神ご自身がわたしたちの「汚れた唇」を清めに来られ、わたしたちを宣教にふさわしい者にしてくださいます。「これがあなたの唇に触れたので、あなたのとがは取り去られ、罪はゆるされた。そのとき、わたしは主のみ声を聞いた。『だれを遣わすべきか。だれが我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」(イザヤ6・6-8)。

 すべての宣教する弟子は、「よいわざを行い、すべての人をいやした」(使徒言行録10・38参照)イエスと同じように、人々のもとに「出向く」よう招く神の声を心の中で聞きます。すべてのキリスト者は、洗礼の恵みによって兄弟姉妹に「キリストを運ぶ人」になると、わたしは前に述べたことがあります(一般謁見講話、2016年1月30日参照)。このことは、奉献生活や司祭職に招かれ、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と進んでこたえた人々にとりわけ当てはまります。彼らは、神のいつくしみが人々に豊かに注がれるために、宣教への新たな熱意をもって神殿の聖域から出るよう招かれています(聖香油のミサ説教、2016年3月24日参照)。教会が必要としているのは、真の宝を見つけたために穏やかで自信に満ちた心をもち、喜びをもって皆にそれを伝えるために出かける聖職者です(マタイ13・44参照)。

 キリスト教の宣教について語る際には、もちろん多くの疑問が生じます。「福音宣教者であることは何を意味するのでしょう。福音を告げ知らせる力と勇気はだれから与えられるのでしょう。宣教へと駆り立てる福音宣教の論拠は何でしょうか」。これらの疑問には、福音の中の次の三つの箇所について深く考えることによって答えることができます。すなわちイエスがナザレの会堂で宣教を始めた場面(ルカ4・16-30参照)、イエスが復活の後にエマオの弟子たちと共に歩んだ道のり(ルカ24・13-35参照)、そして最後に、種のたとえ話です(マルコ4・26-27参照)。 

 イエスは聖霊によって油を注がれ、派遣されます。宣教する弟子であることは、キリストの使命に積極的に参与することを意味します。イエスはご自分の使命について、ナザレの会堂で次のように述べています。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4・18-19)。これはわたしたちの使命でもあります。すなわち「聖霊によって油を注がれ」、みことばを伝えるために「兄弟姉妹のもとに行き」、彼らのために救いの道具となるのです。

 イエスはわたしたちの歩みに寄り添っています。人々の心にわき上がる疑問や、現実から生じる課題を前にして、わたしたちは当惑し、自分には能力も希望もないと感じてしまいます。キリスト教の宣教は単なる非現実的な幻想であると考えたり、少なくとも自分の力の及ばないものであると思ったりするおそれがあります。しかし、エマオの弟子たちの傍らを歩く復活したイエス(ルカ24・13-15参照)のことを考えるとき、わたしたちは自信を取り戻します。この福音箇所には、みことばが告げられ、パンが割かれる場面に先立つ真正で独自の「道の典礼」があります。それは、わたしたちの一つひとつの歩みにイエスが寄り添っておられることを伝えています。この二人の弟子は、十字架刑に打ちのめされ、砕かれた希望と果たせなかった夢を心の中に抱きながら、挫折の道をたどって家に戻ります。彼らの中で、悲しみが福音の喜びに取って代わります。「イエスは何をなさるでしょう」。イエスは彼らを裁かずに、彼らとともに歩みます。壁を築くのではなく、新たな突破口を開きます。イエスは彼らの失意を少しずつ変えてゆき、彼らの心を燃え立たせ、そしてみことばを告げ、パンを割くことによって彼らの目を開きます。このように、キリスト者は宣教の使命を独りで担うのではありません。キリスト者とは、たとえ疲れ果て、人々の理解が得られなくても、「イエスがともに歩み、ともに語らい、ともに呼吸し、ともに働いてくださることを知る者です。宣教活動のただ中では、イエスがともに生きてくださっていることが感じられます」(使徒的勧告『福音の喜び』266)。

 イエスは種を育てます。最後に、宣教するすべを福音から学ぶことが重要です。わたしたちはしばしば、たとえ悪気はなくとも、ある種の権力欲や改宗の強要、偏狭な狂信主義にとらわれます。しかし福音は、成功と権力の偶像化、組織への過剰なこだわり、さらには奉仕より征服を優先しようとする考え方を退けるようわたしたちを招いています。神の国の種は、たとえ目に見えないほど小さく、時には取るに足らないものに思えても、神の絶え間ない働きによって徐々に成長し続けます。「神の国は次のようなものである。人が土に種をまいて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」(マルコ4・26-27)。神はわたしたちの想像を超えたかたであり、つねに広い心でわたしたちを驚かせてくださいます。神はわたしたちの働きに、人間の打算をはるかに超えた実りをお与えになります。これこそが、わたしたちにとってもっとも大切な信頼です。

 わたしたちは福音に基づくこの信頼をもって、宣教の根本である聖霊の静かなわざを受け入れます。絶えず観想的な祈りをささげなければ、司祭職への召命もキリスト教の宣教もありえません。したがってキリスト者の生活は、みことばに耳を傾け、とりわけ聖体礼拝において主との個人的な交わりを深めることによって育まれなければなりません。聖体礼拝は、わたしたちが神と出会う特別な「場」です。

 わたしは、とりわけ司祭職と奉献生活への新たな召命を神に願い求めるためにも、主とのこの深い友情を生きるよう皆さんを強く励まします。神の民は、福音のために生涯をささげる司祭に導かれる必要があります。したがってわたしは、小教区共同体、教会内の諸団体と多くの祈りの会に対し、くじけずに主に祈り続けるよう求めます。主が収穫のために働き手を送ってくださいますように。また、福音を愛し、兄弟姉妹に寄り添い、神のいつくしみ深い愛の生きたしるしとなることのできる司祭を、主がわたしたちに与えてくださいますように。

 兄弟姉妹の皆さん、とりわけ若者に対してキリストに従うよう説き、提案する情熱を、わたしたちは今も取り戻すことができます。信仰を退屈なもの、単なる「果たすべき義務」ととらえる世論の中で、わたしたちキリスト者の若者は、イエスの姿に絶えず魅了され、イエスのことばと行いによって問いかけられ、駆り立てられることを望んでいます。そして彼らは愛のうちに喜んで自らをささげ、主によって人間的に充実した生活を送るという夢を抱いています。

 救い主の母、至聖なるマリアは、自らの若さと情熱をみ手にゆだね、神に対して同じ夢を抱く勇気をもっておられました。マリアの取り次ぎによって、マリアのように開かれた心、主の呼びかけに「はい。わたしはここにおります」と答える心構え、そして全世界に主を告げ知らせるためにマリアのように出向く(ルカ1・39参照)喜びがわたしたちに与えられますように。

バチカンにて
2016年11月27日
待降節第一主日
フランシスコ