姜真求神父 四旬節第4主日ミサの説教

 

今日の福音で、イエス様は生まれつき目の見えない人を癒してくださいました。ところが、その過程がちょっと不思議でしょう。イエス様は唾で土をこねて、それを盲人の目に塗られました。それから、「シロアム」という池に行って洗うように彼を送られました。盲人はそのままシロアムに行って自分の目を洗って、生まれて初めてすべてを見ることが出来るようになりました。彼にとって言葉では表現できないほどの嬉しい出来事でしたが、一方、彼の治療を巡って多くの人々が騒ぎ、口論が起こりました。なぜ、周りの人々は彼と共に喜んでくれなかったでしょうか。

盲人であった人が癒やされたと知った周りの人達にその経緯を聞かれて、彼は全てのことを素直に説明しました。ところが、それを聞いた群衆は彼をファリサイ派の人々の所へ連れて行きました。実は、イエス様が彼の目を開けてくださったのは安息日のことで、イエス様は「何もやってはならない」安息日に病人を癒されたのです。また、当時、イエス様の教えや行動が気になっていたユダヤ人達は、「イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」でしょう。それで、群衆はイエス様によって癒された盲人であった人を告発しようとしたかもしれません。とにかく、ファリサイ派の質問が始まりましたが、生まれつき目の見えなかった人は、もう一度、イエス様が自分になさったことを一つも隠さず語りました。それを聞いたユダヤ人達はイエス様について色々と話し合いましたが、結論が出せませんでした。それで盲人であった彼の考えを直接に聞きましたが、彼は「あの方は預言者です。」と答えました。それでも、ユダヤ人達は彼のことを信じず、更に彼の両親にも確認しました。しかし、両親はユダヤ人を恐れていたので、彼が自分達の息子だと証言しながらも、イエス様については彼自身に聞いて欲しいと言いました。

それから、生まれつき目の見えなかった人と頑ななユダヤ人との戦いが始まりました。ユダヤ人たちはどうしてもイエス様をメシアとして認めたくなかったし、むしろ、罪びとと定めて殺そうとしていたのでしょう。ですから、彼らはその盲人であった人を説得しようとしましたが、彼はそれに負けず、間接的に自分はすでにイエス様の弟子になりたいことを表しました。そして、最後には「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです。」と言い、イエス様は神様が遣わしてくださったメシアであることを堂々と証言しました。彼の話を聞いたユダヤ人たちは彼に怒り、彼を会堂から追い出しました。その後、彼はイエス様に出会って、イエス様に自分の信仰を告白しました。イエス様はご自身が来られたのは「見えない者は見えるようにし、見える者は見えないようにする」為だと言われましたが、それを聞いたユダヤ人たちは反発しました。しかし、イエス様は彼らこそ何も見えない愚かな者だと宣言しました。

今日の第2朗読で、使徒パウロは私たちがキリスト・イエス様に結ばれて、光となったと言いました。つまり、イエス様は神様が世の暗闇を追い出そうとして遣わされた真の光であって、私達はそのイエス様の愛の光を受けて、世の光となったということです。私達は元々、罪の暗闇の中で生きていましたが、イエス様の十字架によって救われました。だからこそ、イエス様に喜ばれること、言い換えれば、イエス様の愛に沿って、それを実践しなければなりません。神様は私達がこの世の中のだれより優れた者だったから選んでくださったのではありません。今日の第1朗読の内容のように、ダビデをお選びになった神様は、人間のように目で見る方ではなく、心で私たちをご覧になりました。世の中の条件に沿ってみたら、おそらく、私たちは選ばれることがなかったかもしれません。しかし、神様はそのような弱すぎる私たちを選んで、私たちがご自身の完全性に与ることができるようにして下さいました。どうして、私たちが神様の完全性に与ることが出来るでしょうか。それは、神様が遣わされた真の光であるイエス様のように生きることによって出来るのです。

今日、イエス様は生まれつき目の見えない人の目にこねた土を塗りました。そして、それを洗った彼は真の光であるイエス様をありのままに見ることができました。彼は苦しくて悲しい自分の人生を、物乞いをしながら生きてきましたが、そういうことはイエス様にとっては障害物ではありませんでした。実際の問題は、世の中の様々な条件、自分の愚かな先入観、頑なな規則や基準だけに従おうとする心、それに沿って人を判断しようとする態度なのです。それがイエス様のこねた土よりも固いものになって、私たちの目や心を覆っているかもしれません。見えない目に土を塗られてシロアムに向かって行った盲人は群衆のあざけりの的となったはずですが、実際に恥ずかしいのは、自分の愚かで頑なな心に気づかず、そのまま生きようとする様子でしょう。

今日の福音の盲人はイエス様を信じて、人々の非難や攻撃に負けず、その御業を公に語りました。彼は確かに信仰において大人でした。それは、私達には信仰の模範となったと思います。信仰において大人となる為には、先ず、自分をへりくだって悔い改めなければなりません。また、信仰を表すにためらうことなく、勇気をもってイエス様と共に十字架の道を歩むべきです。

今年の四旬節は様々な観点から見たら、私達の信仰の生活や愛の生活を自ら顧みるように導かれているという気がします。ミサに与れないこの悲しい状況の中で、私は毎日のミサの中で信者の皆さんの為に祈っています。信者の皆さんも互いの為に、特に、自分の心で覆ってしまった人々の為に祈ってくださったらありがたいと思います。事実、私たち一人一人が、今の時代のシロアム、つまり「遣わされた者」として、生きている池にならなければなりません。多くの人々が私たちの心の中で清くなり、互いに赦し合い、祈り合い、愛し合いながらこの四旬節を過ごしたら、神様はきっと私達が喜び豊かな復活祭を迎えることが出来るようにしてくださると確信しています。神様の憐れみに支えられて、私達が真の光であるイエス様のように生きることが出来るよう、お祈りいたします。

カトリック二俣川教会主任司祭  ヤコブ姜 真求

☆彡フリガナ付きはこちらをクリックしてください。(Please click here for the FURIGANA version) 2020年3月22日姜神父様のお説教ふりがな付き