今日の福音は、教会を建てる計画についての公の宣言のようなものです。イエス様は今日の福音で初めて、教会の設立についておっしゃいましたが、それはおそらく、神様の救いの計画が教会を通して続けられるという意味でしょう。言い換えれば、イエス様はご自分を通して現わされる神様の救いが、これからは教会に任せられるということを、今日の福音で、明らかにされたということです。その先に、イエス様は弟子たちに、同じ形のように見える二つの質問を投げ掛けられました。先ず一つ目は、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか。」という質問ですが、それについて弟子たちは自分たちが群衆から聞いた色々なことをイエス様に言いました。つまり、人々はそれぞれ「人の子は洗礼者ヨハネとか、エリヤ、或は、エレミアや預言者の一人だ。」と言っていると答えました。すると、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と質問されましたが、これがもう一つの質問です。それに対してシモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えました。それを聞いたイエス様は彼を祝福しながら、彼が教会のペトロ、つまり、岩になると言われました。そしてイエス様は、「私はあなたに天の国のカギを授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは天上でも解かれる。」と言われ、教会が天の国のしるしであり、また、ペトロが地上の教会と天の国との繋がりのしるしであることを、はっきり示されたのです。

今日の福音の内容をちょっと簡単にまとめてみたら、先ず、イエス様は群衆と弟子達の信仰を確認して、その信仰の上にご自分の教会を建て、その教会がイエス様を通して成し遂げられる神様の救いの計画を受け継ぐようになると宣言されたと整理できます。しかし、今日の福音をより深く掘り下げたら、私たちは今日の福音が何か特別なことを目指していることに気付くことができます。そのヒントはイエス様の二つの質問から得られますが、実は、今日イエス様は弟子達に、全然違うことを尋ねられたと言えます。まず、イエス様は「人の子についての群衆の考え」を聞かれ、続いて、「ご自分についての弟子たちの考え」を御尋ねになりました。もし同じことを知ろうとするなら、「人の子についての群衆と弟子たちの考え」と「イエス様についての両方の考え」を聞くべきです。しかし、今日、イエス様は、まるで、群衆には人の子のことを、また、弟子たちにはイエス様ご自身のことについて問い掛けられました。なぜ、そうなさったでしょうか。

事実、「人の子」という言葉は旧約から伝わった言葉で、特に、預言者ダニエル記に良く表わされる言葉なのです。ダニエルは神様が遣わされる救い主を「人の子」という言葉で表現し、イスラエルの民にとって「人の子」という言葉は、植民地の民として受けざるを得なかった様々な抑圧や暴力、不正義と腐敗の現実から自分たちを解放してくれる人物として理解されていました。それで、イスラエルの民は皆、その「人の子」が早く来て自分たちを解放し、新しい国を建ててくれることを切に待っていました。そして、その「人の子」がどれほど偉大な人物なのかに対して、それぞれの考えを持っていて、そのイメージを昔の預言者である「エリヤとかエレミア」、また、当時の偉い人であった洗礼者ヨハネから見出していたのです。残念ながら、洗礼者ヨハネはヘロデに殺されてしまい、群衆は新たな人物を待っていましたが、イエス様からは自分たちの観念と全く同じイメージの「人の子」の様子は見つからなかったでしょう。それはイエス様もすでに気づいておられたことでした。それで、イエス様は今日の一つ目の質問を通して、ご自分が群衆の考えと違うことを、先ず確かめた上で、実際のご自分について、次の質問を通して明らかにされました。

二つ目の質問は、イエス様について弟子たちがどう考えているのかということでした。ところが、この質問について弟子たちは其々自分なりに答えたと思われますが、ただ、ペトロの答えだけが伝えられています。もしかすると、実際、彼しか答えなかったかもしれませんが、とにかく、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えました。この答えは言い換えれば、「あなたはメシアであり、また、神様の子であります。」という二つの意味が含まれていて、ペトロは「あなたは人の子と言われるメシアです。また、人の子ではなく神様の子です。」という、とても素晴らしい信仰告白を口にしたのです。でも、それをお聞きになったイエス様は、先ずペトロを祝福し、誉められましたが、一方で、それが彼自身の知識や知恵からのものではなく、神様が現して下さったことだと言われました。つまり、ペトロが誉められたのは、自分の信仰を表わしたからではなく、彼が神様の知恵に従って答えたからで、言い換えれば、それは神様に従順だったという意味です。ペトロは自分の知識や経験、或いは、世の中の人たちの話によらず、神様が教えて下さった通りに答えたので幸いだと誉められ、それに応じるかのように、イエス様も彼に天の国のカギを授けてくださったのでしょう。

今日の第1朗読で、神様は宮廷を支配していたシェブナから一切の権力を取り上げられました。彼は自分の地位と権力を用いて、自分の立派な墓を築いたのです。それは自分の名前と名誉、また、業績などを後の世代に残そうとしたのでしょう。神様はシェブナの傲慢な態度を責められ、彼の仕事はエルヤキムに渡されると宣言し、また、「彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開くものはないであろう。」という言葉で、エルヤキムを祝福なさったのです。こうして、神様はご自分の民のために選ばれた者たちが、ご自分の代わりに愛と慈しみ、正義と公正に基づいて民を収めることを望んでおられ、また、神ご自身がすべてのあらゆる力と知恵の源であることを表し、更に、すべての人がその神様に従わねばならないことをも明らかにされました。それは今日の第2朗読の使徒パウロの話でも分かります。使徒パウロは自分が回心する前、人生の頼みとしたさまざまな知識や経験などを捨て、イエス様の愛と慈しみを新しい生き方として選びました。イエス様を通して現わされた神様の愛の富と知恵と知識に比べられるものはないことを悟ったのでしょう。そして「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」ことも悟り、自分に任せられたイエス様の福音に沿って生きながら、「神様から出たすべての人が、神様の愛によって保たれるように努め、また、神様にひたすら向かうように教えた」のです。それが教会の務めであるのは言うまでもないことでしょう。

さて、この新型コロナウイルスのさなかにあっても、世界の多くの指導者たちは今までの自分たちの地位や権力を守ろうとしている気がします。何度も繰り返して言っていることですが、とても残念で悲しいし、なぜ利己的で自分中心的なやり方にこだわるばかりで、新しい道を見つけようとしないのかと感じます。その道とは、イエス様の愛と慈しみを通して現れた神様の救いの道で、まず、指導者と呼ばれる人々がそれに従うべきだと思います。勿論、それは指導者たちだけの問題ではなく、私を含めて皆がそうしなければならないと思います。特に、私たち教会の人たちは、すべての人を神様につなげるよう、また、世の中の色々な重くて厳しい基準や勝手な判断の網からすべての人を解くよう、神様に召されました。天の国のカギはそのようにせよとして授けられたものでしょう。私たちが賢くそのカギを使ったら、天の国は地上から始まると思います。このミサの中で、私たちがそう言う人になることができるよう、神様の導きを祈り求めましょう。

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