司祭はミサの前、香部屋で祭服を着てから、二つの祈りを静かに唱えます。先ず一つは、「主よ。卑しくて取るに足りない私は、聖なるローマ教会の典礼に沿って、まことに尊い主・神様を賛美し、聖教会の完全な勝利と私自身の霊的な有益と、わたしが祈るようにと任せて下さった、生きている全ての人たちとキリスト者の民と、聖なるローマ教会の平和な姿のため、私たちの主・イエス・キリストの聖体と聖血を現存させるミサ聖祭の主司式を行おうとしております。アーメン。」という祈りです。続いて「平和の喜びと生活の変化、真の悔い改めの時間と聖霊の御助け、善な行いの恒久さとそれ以外の私たちに必要なすべての恵みを祈り求めますので、主よ、憐れんで受け入れてください。アーメン。」という祈りを唱えて、それから入堂します。これらの祈りを唱える度毎に、つまり、ミサを捧げる度毎に、わたしはこのミサの貴重さをいまさらのように感じます。また、私自身が一体何者なのかについて考えながら、まことに恥ずかしさを覚えます。なぜなら、果たして、私自身がこの尊いミサを司式するにふさわしいものなのかという気がするからです。そして、今日の福音を黙想しながら、また再び、自分のことを反省することになりました。

今日の福音で、イエス様は慈しみ深く憐れみに満ちておられる神様を、ある葡萄園の持ち主に例えられました。彼は夜明け頃から始め、朝9時と12時、また、午後3時と5時に出かけて、自分の葡萄園で働く人達を集め、彼らをそこに送って、彼らが働いて賃金を得るようにしました。その葡萄園の主人が提示した賃金は一日一デナリオンでしたが、それは最初に雇われた人達だけに交わした約束でした。つまり、次から雇われた人達には具体的な金額が提示されなかったということです。とにかく、夜明けから働き始めた人達と、次々雇われた人達で、葡萄園はいっぱいになったでしょう。彼らは皆、それぞれ額に汗しながら働き、いよいよ夕暮れになって、約束された賃金をもらうことになりました。そこで主人は監督に最後に来た人から順に賃金を払わせたので、最初の人達は自分達の順番をずっと待っていたはずです。ところが、たった1時間しか働かなかった人達が1デナリオンをもらっているのを見て、最初の人達は約束された賃金よりもっと多くのお金をもらえると期待したのですが、彼らもただ1デナリオンしかもらえませんでした。それで、彼らは主人に不満を言いましたが、主人は約束通りに支払ったことを思い起こさせながら、後で雇った人達にも同じ賃金を支払う権利が自分にあることを明確にしました。また、主人は彼らの妬みや恨みなどについても警め、この例え話の最後に、イエス様は「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」と仰せになり、それが神の国で、また、神様のやり方であることをはっきり教えてくださいました。

確かに、この例えによると、神様の国はこの世の国と異なり、神様のやり方もこの世の常識とは違うことが分かります。きっと、多くの人は神様のやり方が理解できないかもしれませんが、それは神様のなさることでしょう。私たちの理解や常識をはるかに超えている神様のことを、人間が理解できないからと言って、それを認めない、或は、認めたくないというのはおかしいことだと思います。大事なことは、その葡萄園で働いた人達は、元々そこでの労働権を持っていなかったということです。言い換えれば、彼らは誰かが雇ってくれなければ働けなく、また、お金を得ることも出来ない人達だったのです。その中には、自分の得意の仕事がある人や何もできない人、或は、葡萄園の仕事が初めての人もいるでしょう。主人はそういった人達を自分の葡萄園に送り、そこで働けるようにしてくれたのです。それで、夜明けから働き始めた人達が少しずつ自分の仕事に慣れるようになった頃、次々新人が雇われて来て、彼らはどんどん先輩、更に大先輩となったわけです。そして、賃金をもらう時、その大先輩達は「もしかすると、自分達はもっと多くのお金がもらえるかも知れないぞ。」という思いが起こったのです。その期待は、最後に雇われた人達より2時間前、5時間前、8時間前に雇われた人達も持っていたかもしれません。しかし、同じ賃金しか支払らわれなかったので、夜明けから働いた大先輩達は失望のあまり不満を口にしましたが、返事は福音通りでした。彼らは自分達も知らないうちに、いつの間にか自分達の立場を忘れてしまいました。もしかしたら、自分達がぶどう園の主人に成り済ましたつもりでいたのでしょうが、勿論、それはあり得ないことでしょう。

今日の第2朗読で、使徒パウロは生きていることと死ぬことの間で迷っている自分自身の心を露にしました。実際、パウロは世を去って早くキリストと共にいたかったのですが、それは自分の決めることではないことをよく知っていました。しかし、自分が福音の為に、また、教会の為に選ばれたことも知っていたので、生きている間に自分の全てを尽くしてもっと働きたかったでしょう。パウロは死ぬことを願いながらも、最後の最後まで、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送る」者となることを希望しました。そのキリストの福音とは、イエス・キリストを通して現わされた神様の慈しみと憐れみと愛による罪の赦しと、救いと、永遠の命に関することです。つまり、イエス様の福音に沿ってイエス様のように生きて行ったら、皆、「真の平和の喜びの中で、悔い改めを通して日々新たに生まれ、聖霊の助けに力付けられて、良い業を積みながら」、神様の国への道を歩むことができるということでしょう。使徒パウロは教会の人達にそれを教え、皆が互いに自分を低くし、皆の為に心から仕えるようにと勧めました。私はそれこそ、今日の第1朗読で預言者イザヤが語っている、私達の思いをはるかに超えておられる神様の意向と御心であり、その福音の道こそ、私達が歩むべき神様の道だと思います。

さて、韓国の司祭たちは、例えば、自分の霊名のお祝いの日になると、挨拶の言葉として「自分は卑しくて取るに足りないものです。」と、良く言ったりしますが、昔はそれが本心からの言葉であろうかと思いました。しかし、司祭になって、時間が経てば経つほど、私はそれを実感しています。特に、コロナウイルスの中、一人でミサを行っていますが、その聖なる儀式、しかも、教会の一番大事な活動である儀式が、私によって捧げられるのは、何と素晴らしいことなのかと考えながらも、一方、自分はそれにふさわしいだろうかという思いや、自分としてはこの教会というぶどう園で働く資格も持っていないのではという思いが、日々心に浮かんできます。 それは教会の色々な奉仕においても同様だと思います。皆、神様によって雇われたから、働けるようになったでしょう。そういうことを考えながら、これからも私自身と信者の皆さんのために、神様からの慈しみと憐れみを願いたいと思います。併せて、このミサの中で私たちの謙遜な活動が多くの実を結ぶことを祈り求めましょう。

原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 2020年9月20日姜神父様のお説教

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☆彡新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り ⇒ COVID-19inoriB7

★9月からの主日ミサスケジュール ⇒ミサスケジュール(0905-1122)A