日本の子供たちは、主日のミサに与ってもあまりミサの献金をしませんが、韓国の子供たちは幼い頃からミサの献金を行うことが身に付いています。わたしも小学校に入学して教会学校に通い始めてから、ミサの献金を捧げ始めました。でも、最初は自分の決まったお小遣いがなかったし、それを節約して使ったりすることが難しかったので、毎週、親から少しのお金をもらってそれを献金しました。その金額は、大体1円から5円ぐらいでした。何と小さな献金だったでしょう。参考までにですが、韓国ではミサの献金は自分を捧げるという意味で、皆、祭壇の前まで行列し、そこに用意されている献金箱に入れます。それで、小学校1年生の頃にはミサの献金の時間になったら、親からもらったお金を両手でしっかりと隠して、祭壇の前まで気を遣いながら歩いて行き、こっそり献金箱に入れたりしました。当時は親からちょっとでも大きなコインをもらいたかったのですが、その頃、兄姉はじめ末っ子の私までがミサの献金を行ったので、其の1円も親としては大変なお金だったと、今は思っています。とにかく、ミサの献金の意味が少しずつ分かるようになってからは、恥ずかしさなど考えずに献金することができました。でも、実はそれを悟るには、小学校の6年間という時間が必要でした。そして、司祭になってからは、祭壇の上で子供たちの献金する様子を見つめながら、自分の幼い頃のことを顧み、その小さな両手で捧げられる献金が、親からもらったものに違いないと考えつつ、神様がその捧げ物を喜んで受け入れて下さるようにと祈っています。事実、私たちが捧げる献金とは、神様から頂いたすべての恵みで自らが結んだ実であることを、子供の時から教えるのも大事なことだと思います。

今日の第1朗読で、神様はイザヤ預言者の口を通して、イスラエルの民を裁かれました。イザヤは自分が愛する方、つまり、神様を農夫に、また、イスラエルの民を葡萄の木に、そして、イスラエルの土地を葡萄畑に例えました。この朗読を通して、私たちは、神様がどれほどイスラエルの民を愛しておられたのが分かります。神様はご自分の葡萄の木のようなイスラエルの民をエジプトから移し、荒れ野のような土地をぶどう園のように変えて、その約束された土地にイスラエルを自ら植えられました。しかし、その素晴らしいぶどう園でイスラエルが実ったのは、何と、酸っぱい葡萄だけでした。イスラエルは、正義と慈しみと愛の神様の民として、それにふさわしい生き方に従おうとはしませんでした。むしろ、彼らが実ったのは、流血と叫喚、言い換えれば、様々な犯罪と不正義、抑圧と搾取、差別と格差、分裂と対立だけだったのです。それで、多くの民が苦しみや悩みの涙を流し、互いに、恨んだり、ねたんだり、また、憎んだりしていたのに、民の指導者たちは、自分だけの利益や欲心に拘って、民を忠実に世話しようとも、守ろうともしませんでした。その民の様子を見つめておられた神様の御心は、どれほど大きな痛みに包まれていたでしょう。イスラエルの民は自分たちを愛しておられる神様から頂いたすべての恵みを忘れてしまい、王を始め、皆が、神様に背いて罪の道を歩み、結局、神様に酸っぱい実しか味わわせない木となってしまったのです。

今日の福音で、イエス様はイスラエルの民の罪の歴史を、あるぶどう園の主人とそのブドウ園を借りて働いた農夫たちに例えられました。その主人はとても細かいことまで工夫して、自分のブドウ園を造りました。彼はそれを守るために垣を巡らしたり、見張りのやぐらを立てたりし、また、搾り場も掘っておいて、将来、農夫たちが楽にぶどう酒を作れるようにしておいたのです。そして、それを農夫たちに任せて旅に出ましたが、その農夫たちとの間には、おそらく、収穫の一部分を収めるという契約があったはずです。しかし、彼らはその主人の分をもらいに来た僕たちを殴ったり殺したりし、更に送られたもっと多くの僕たちも同じ目に遭わせました。それで、主人は最後の手段として、自分の息子を送りましたが、その悪人たちは主人の息子まで、ぶどう園の外に放り出して殺してしまいました。イエス様の例え話は、一応ここで終わりましたが、続いて、イエス様はその例え話の聴衆であった祭司長や民の長老たちに、それからのブドウ園の主人がどう対応するかについて尋ねられました。祭司長や民の長老たちは、勿論、主人がその悪人たちを滅ぼして、もっと忠実な農夫たちにそのブドウ園を任せるはずだと答えましたが、その答えに対して、イエス様は聖書のある御言葉を用いて彼らを戒められました。それは『家を建てる者たちが捨てた石が、隅の親石となる』という内容の御言葉で、その意味は、民の指導者たちによって自分は捨てられるが、神様によって復活され、神様の建物の親石となると、前もって示されたのです。その神様の建物とは神様の国のことで、その国は相応しい実を結ぶ民族に与えられるが、その民族とは神様の新しい民族、つまり、教会に違いありません。

その教会に招かれている人たちに、今日、使徒パウロは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神様に打ち明ける」ようにと勧めました。それは、すべての源である神様に完全に任せることでしょう。それでキリストの平和に与り、その平和の中で信仰の道を歩むことができるのは、当然なことです。パウロは人々にそのように勧めたうえ、更に「真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なこと、また、徳や称賛に値することを」すべて心に留めるようにと勧めました。それは、信仰のある人として、何がもっと大事なことか、何を求め、何を捨てるべきか、どう振る舞うべきかを教えたかったのだと思います。実際、使徒パウロはそういうことを常に求め、また、それを教えてきました。それは自分と教会を通して多くの人に平和の神様が現わされ、また、福音が証しされるためでした。パウロにとって、教会の人たちのそういう生き方こそが、神様にふさわしい実を捧げることであったでしょう。その生き方とは、勿論、使徒自身がイエス様から学んだことで、世の中の罪や誘惑、悪い習慣や風潮を断ち切って、イエス様の愛と慈しみを実践することに違いありません。

さて、福音の例え話の悪人達は、そのような悪に染まった心を持っては、その豊かなぶどう園を守れるはずがありません。誠実に働き、絶え間なく動かなければ、つまり、自分達の怠けがちな心を変えなければ、何も得られないということです。教会のことも同じだと思います。この新型コロナウイルスは、私達に新しい心を求めているかのような気がします。その新しい心とは、皆が変わらなければ備われない心で、神様が本当に望んでおられる世を作る為に知恵と力を合わせようとする心だと思います。まだ、先が見えないですが、これからも皆が心を新たにし、また、一つにして働ける恵みを、特にこのミサの中で祈り求めましょう。

原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 2020年10月4日姜神父様のお説教

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☆彡新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り ⇒ COVID-19inoriB7

★9月からの主日ミサスケジュール ⇒ミサスケジュール(0905-1122)A