新型コロナウイルスのさなかで、世界各国が治療薬やワクチンの開発に熱を上げていて、誰が先にそれに成功するかに関心が集まっています。個人的には、どちらの国でも早く、薬やワクチンが開発されたら幸いだと思いますが、その見えない争いの裏面には、その薬やワクチンを用いて、世界の主導権を握ろうとする動きもあるそうです。確かに、そういうものを持っている国だったら、とにかく、今の危機から自分の国民を守ることもできるし、それを国家競争力に利用することもできます。そこまでは行かないだろうと思いながらも、現実の動きは多分そのようになるようです。悲しいことですが、人間の考えは、今の危機の中でも、自分の権力を固めることや他国の上に立とうとすることに拘っているのではという気がします。そういうことを考えながら、私たち信仰のある人たちの祈り、特に、今の危機を乗り越えるための祈りだけではなく、世界の平和のための祈りが必要だと思います。また、私たち一人一人が神様の意向に沿って生きる平和の働き手となることも大事なことだと思います。

今日の第1朗読で、神様は預言者イザヤの口を通して、キュロスについて語られました。彼はバビロンを打ち砕いてペルシアを立てた王で、特に、各民族の宗教に寛大な姿勢を持っていました。実は、イスラエルの民は彼のおかげで、故郷に帰ることができて、廃墟になってしまったエルサレムの神殿を再建できるようになったのです。しかし、キュロスのそういう配慮は、神様が彼の心を動かしてくださった結果で、神様について何も知らなかった彼を、神様は諸国の王とされたというのが、今日のイザヤの預言なのです。つまり、キュロスの成功は神様がイスラエルのために計らわれたもので、彼自身の人間的な能力や力によったものではないということです。神様がそうなさったのは、キュロスを通して、すべての人たちに神様ご自身のことを知らせ、すべての民族が神様だけを主と認め、他の神はいないことをはっきり知ることとなるためでした。こうして、神様はイザヤの預言を通して、すべてがご自身の計らいの中にあることを示され、更に、人間の虚しさについても教えられたのです。人はその神様の意向に従うならば、生きることができますが、それに背くならば、ただの塵に過ぎないでしょう。

今日の福音は、所謂「税金論争」と言われる箇所です。イエス様はご自身の言葉尻を捕らえて、罠に掛けようとしていた人たちの計略を、ただ一言で抑えられました。実は、ファリサイ派とヘロデ派とは、全く相容れない人たちですが、彼らは今日、イエス様を捕らえる為に一つとなっていました。それで先ず、色々と相談したうえで、これだと考えてある複雑な問題を作ったのです。それは「皇帝に税金を納めるのが、律法に適っているのか、いないのか」ということでした。彼らは、イエス様が真実な方で、真理に基づいて神様の道を教え、また、誰をもはばからない方であると言いましたが、それは恐らく、イエス様に自分たちの計略が見通されないようにするための話でしょう。しかし、イエス様は既に、彼らがご自分を試そうとしているのに気づいておられ、「税金に納めるお金を見せなさい。」と言われました。そして、彼らが見せた銀貨に刻まれていた肖像と銘とが誰のものなのかと聞かれました。彼らは「皇帝のものです。」と答えると、イエス様は「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」とお答えになりました。何と痛快なお答えでしょう。まるで、映画のワンシーンを見ているかのようです。きっと、ファリサイ派とヘロデ派の人たちは、そのイエス様の答えに対して、どんな反論も口に出せなかったと思います。彼らはイエス様がどちらか、つまり、「律法に適っている。」とか、「適っていない。」と、答えるはずだと思っていましたが、イエス様はどちらも選ばれませんでした。もし「適っている。」と答えたら、ファリサイ派の罠にかかり、また、「適っていない。」と答えたら、ヘロデ派の罠にかかってしまう危険な状況で、イエス様は、神様のものと皇帝のもの、或いは、世の中のものとをわきまえて、賢明にお答えになったのです。併せて、ご自分に従う人たちは世の中のものに拘らず、常に、神様のことに心を込めて生きるべきだということも教えてくださったのです。

その神様のことについて、今日の第2朗読で、使徒パウロは次のように伝えています。それは「信仰によって働き、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに対して、希望をもって忍耐する」ということです。パウロはテサロニケの教会の信者さんたちにこの手紙を送るにあたって、先ず、こうした言葉で彼らを励ましましたが、それは、彼らが受け入れた福音と信仰の正しさを確信させるためでした。事実、テサロニケの教会はイエス様の再臨のことで思い悩んでいましたが、それはイエス様の再臨のときが益々見えないということについての不安と不信仰が生じ、それが共同体の中で広まっていたためでした。それでパウロは、彼らの働きは世の中の知識や個人的な思いによらず、神様に向かう信仰とイエス様の教えと福音によったものだと言い、また、様々な迫害や苦しみがあっても、それは神様に向かう愛を証しする機会になると励ましました。同じく、そういう状況でも彼らは神様だけに希望を置いて、良く忍耐していると言いながら、テサロニケの教会は神様の力と聖霊の導きによって立てられたことを、改めて確信させてくれました。パウロは彼らに、どんな不安や苦しみがあっても、また、世の中の様々な誘惑や試練があっても、それに揺らぐことなく、常に、信仰の道を忠実に歩むことによって、イエス様の再臨を備えることを強く勧めたのです。

ところで、昔から教えられている、信仰のある人たちが追い求めるべき三つの功徳(こうとく)があります。それは「向主三徳」と言われますが、それぞれ「信徳、望徳、愛徳」と言われます。先程、使徒パウロが語った内容で、神様だけを信じることと、神様だけを愛すること、また、神様だけに希望を置くことは、パウロにとっては、神様に納めるべき真の税金だったのです。事実、私たちがこの世の中で、信仰の生活を続けていることも、その税金を稼ぐためのことで、私たちは神様に向かう信仰と希望と愛を持って、イエス様の愛の生き方に沿って生きて、神様にふさわしい税金を納めることができるのです。今日、このミサの中で、特に、今の新型コロナウイルスの中で、私達が平和と愛の働き手となって、神様に豊かな実を捧げることができるように、心を込めて祈りましょう。

原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 2020年10月18日姜神父様のお説教

★Please click here for the FURIGANA version)  ⇒ 2020年10月18日姜神父様のお説教ふりがな付き

☆彡新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り ⇒ COVID-19inoriB7