これは私が高校3年生の時、大学入学願書を作成した時の話です。その時代、韓国の大学入学試験は11月に行われていたので、通常は9月にクラスの担任先生と相談しながら願書を作成していました。その相談とは、自分が希望する大学に自分の成績で入学できるかどうかを検討したり、時には、先生の意見を聞いて、自分のレベルに合う学校を選ぶ場合もありました。そんなある日、私も母と一緒に担任先生の前に座り相談を始めました。私の場合はすでに進路を神学校に決めていたし、自分の成績だったら神学校に合格できると思っていたので、相談はあまり長くならないと思っていました。ところが、私の考えを聞いた先生は、突然、他の学校を推薦しながら「君だったら、他の大学も行ける。」とおっしゃいました。そこで私はもう一度、司祭になりたいという考えを話しましたが、先生も私を説得しようとして、思いもかけなかった先生とのやり取りが始まりました。勿論、私が勝ち、先生は負けましたが、最後に先生は「君の考えがそうなら、これからもっと頑張りなさい。そうすれば、司教や枢機卿にもなれるであろう。」とおっしゃいました。そこで、私はもう一度先生に何か話そうとしましたが、諦めました。実は、その担任先生は無神論者であったので、司祭になりたがっていた私の考えや、カトリック教会のことが理解できるわけがありませんでした。先生にとっては、司教や枢機卿になることが出世、或いは、成功を意味すると思ったはずでしょう。もう35年も前の話ですが、今もその時の様子を思い出すと心の中で笑いますが、同時に、もし先生の話通りに、「もっと頑張ったら、本当に司教になっているかも。」という思いが浮かんで、苦笑する時もあります。

今日は諸聖人の祭日で、私達より先に信仰の道を忠実に歩み、信仰のある全ての人の模範となっている人々を讃えつつ、神様に感謝と賛美を捧げる日であります。また、私を含め、信者の皆さんの守護の聖人にも感謝の心を込めて祈る日でもあって、皆がそれぞれの守護の聖人に倣うことができるように、自分の守護の聖人の導きと、自分の為の祈りをお願いする日でもあります。実は、守護の聖人や諸聖人が神様から与えられているのは、私達の為にはとても有益で幸いなことなのです。なぜなら、聖人達は私達がどのようにしてイエス様に倣うことができるか、また、この信仰の道をどのように歩んだらいいかを示してくれるからです。聖人たちはそれぞれ、自分の命をかけて、或いは、愛の生活や祈りの生活、或いは、イエス様の福音を宣べ伝えて、自分たちの信仰を証明しました。勿論、彼らの模範はイエス様であり、彼らは常にイエス様のことを心に留めながら、イエス様のようになろうとする希望を育むことに怠けませんでした。彼らは、神様がイエス様を通して示されたご自身の愛とその愛による救いを信じ、イエス様のように生きることによって、神様の永遠の命に与ることができると確信していたのです。イエス様が神様の子でありながら、その全ての栄光を捨て、ただ、人間を罪と死から救う為、自ら人間となられたように、聖人達は自分達の全てを捨てて、ただ、神様の子供としての名誉だけを祈り求めました。また、イエス様が御言葉と御業を通して、神様の愛と慈しみを示して下さったように、彼らも自分達の言葉と行いを持って、神様の愛と慈しみを証ししました。勿論、聖人達のそのような生活の力は全て、イエス様の御体と御血の神秘、つまり、イエス様の最後の晩餐の記念であるミサ聖祭から得られたに違いありません。なぜなら、その晩餐でイエス様はご自分の体を命のパンとして、また、血を救いの飲み物として与えて下さり、十字架の死をもってその愛を示して下さったからです。聖人達の信仰と愛と希望、また、勇気と力がその晩餐から得られたのは当たり前でしょう。

イエス様は今日の福音を通して、あの有名な山上の垂訓を私達に聞かせてくださいました。イエス様の今日の御言葉は、神様の国に入れる人とは誰かについての御言葉であり、神様の子供達の生き方についての教えでもあります。イエス様は先ず、「心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々は幸いである。」と言われ、彼らがそれぞれの素晴らしい報いを頂くことになることを明確に宣言されました。その報いとは、天の国を頂き、神様に慰められ、神様の地の跡継ぎとなり、神様の義で満たされ、神様の憐れみを受け、神様を見、神様の子と呼ばれることなどです。その後イエス様は最後に、弟子達や多くの群衆に向かって、彼らがイエス様の為に罵りと迫害とあらゆる悪口の的となる時、天には彼らの為の大きな報いが備えられるとも言われ、彼らに希望と勇気とを与えて下さいました。イエス様のその祝福は勿論、私達にも当てはまることですが、その祝福の先に、先ず、私達自身がイエス様の教え通りに生きるべきです。そういう意味で、聖人達は私達の模範として神様が与えて下さった大事な賜物に違いありません。

今日の第2朗読で、使徒ヨハネは、私たちが神様に愛されていることを思い起こさせながら、私達がイエス様のようになるためには、自らを清めねばならないことを教えました。そして第1朗読では、その清くなった人たちがどれほどの栄光を頂くことになるのかを示してくれました。彼らはこの世の中の「大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くした」人々なのです。彼らはイエス様がお受けになった世の中の苦難を自分たちも受け、イエス様の血の力で清くなりました。聖人たちも同じようにし、世の中の様々な誘惑や試練、自分たちの欲心や欲望を乗り越えて、私たちの模範となりました。だから、私たちもイエス様に従い、また、聖人たちに励まされて生きるべきだと思います。山上の垂訓が真の祝福についての御言葉だったら、その反対は真の呪いの道となるでしょう。つまり、心の貧しくない、悲しみを共にしようとはしない、柔和でない、不正や不正義を行い、自分だけを考え、心の清くない、平和のために働かず、神様の正義に背く人々は、不幸な道を行く人だと思います。私たちはそのような道に入ってはいけないでしょう。

今も時々、35年前のあのハプニングを振り返りながら、「もし、もっと頑張ったら、本当に司教となっているかも。」との思いに陥ったりしますが、そうなったら皆さんとの出会いはあり得なかったとも思います。司教となることは初めから考えたこともなかったし、今となってはもう遅いでしょう。でも、信者の皆さんは皆聖人となれる人々なのです。自分が聖人となるかもしれないし、隣の誰かがそうなるかもしれません。聖人となるのは世の中の名誉などを得ることではなく、愛の神様に認められることでしょう。だからこそ、互いに愛し合い、支え合い、赦し合うことが必要です。これからも信者の皆さんと共に、諸聖人に倣いたい、また、彼らの力となったこのミサ聖祭をもっと大事にしたいと思います。そういうことを考えながら、このミサの中で、私たちがイエス様の愛の道、その祝福の道を歩む力を祈り求めましょう。

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