今日は典礼暦の最後の主日である「王であるキリスト」という祭日です。教会の1年は待降節から始まり、今日からの一週間で終わります。私はその1年の初めと最後には特別な意味があると思います。実は、神様から遣わされたイエス様は、当時ほとんどの人たちが待っていたメシアの姿で現れませんでした。人々は偉大で力があり、強くて厳しい君主を待っていましたが、イエス様は私達と同じく弱い赤ちゃんとして現れたのです。しかし、イエス様はその人生を通して神様の真の姿、つまり、神様は愛であることを示してくださいました。イエス様は神様がその愛を通して人間を救われることを示しましたが、それを認め、また、イエス様に従った人々はこの世から見捨てられた人々、罪人や病人、異邦人でした。言い換えれば、世の様々な力を信じ、それに頼っていた人たちは、イエス様をメシアとして認めなかったということです。そればかりか、むしろ、イエス様を自分たちの敵と見なし、更に、そのイエス様を十字架の死に遭わせました。しかし、イエス様は復活し、ご自分に従うあらゆる時代のすべての人に永遠の命を約束してくださいました。私たちはそのイエス様こそ、真の平和の王であると認め、また、信じながら、永遠の王であるイエス様の再臨を待ち望んでいるのです。こうして、イエス様は弱い赤ちゃんの姿で現れましたが、神様の愛の力を持つ永遠の王であるという神様の救いの神秘が、教会の1年の初めと最後を通して現わされているのです。

今日の福音で、イエス様はご自身の再臨と最後の裁きについて、ある例えを用いておっしゃいましたが、それは、まるで、映画のワンシーンを見ているような感動をもたらしてくれます。その話によると、最後の裁きの時、すべての人が永遠の王であるイエス様の右と左に集められます。そして、王であるイエス様の右側の人たちは天地創造のときから用意されている永遠の国を受け継ぐことになります。彼らは困っていたイエス様を色々な形で世話したので、そういう祝福をいただくにふさわしいと言われます。その右側の人々は、自分たちがいつイエス様に仕えたのかを尋ねますが、イエス様は「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と答えられ、彼らの資格をはっきりと示されます。それから、イエス様の左側の人たちも裁かれますが、彼らには悪魔とその手下のために用意してある永遠の火が与えられます。その罰の理由とは、彼らがイエス様のことを世話してくれなかったということです。それで彼らも自分たちがいつイエス様を世話しなかったかと訴えますが、イエス様は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」と答えられます。裁きはそれで終わり、右側の祝福された人々は永遠の命に与りますが、左側の呪われた者たちは永遠の罰を受けることになります。

今日の福音はこのように終わりますが、この御言葉を通して、イエス様によって現された神様の憐れみと慈しみ、また、愛の深さを悟ることができます。今日の例え話でイエス様は正しい人と宣言された人々や、呪われた者どもと呼ばれた人たちに、各々の人生の中で様々な姿でご自分を現わされました。その姿はイエス様だとは思えないほどの惨めな姿でしたが、正しい人々はそんな姿にかかわらず、その都度、世話をしたり、仕えたりしましたが、悪人達はそんな惨めな姿のイエス様のために何もしませんでした。彼らはイエス様がそんな姿でおられるはずがないと思っていたのでしょう。しかし、イエス様はその困っていた人々や苦しんでいた人々がご自分の兄弟であり、更に、イエス様ご自身であったと言われました。つまり、世の中のあらゆる力、例えば、権力とか財力、社会的な地位や職業などによって差別されたり、虐げられたり、追い出されたり、見捨てられたりしている人々がご自分の兄弟であり、イエス様ご自身でもあるということです。また、イエス様はそういう人々と、そんな彼らを助け支えてくれる人々が、ご自分の国の国民となることを、今日の福音を通して教えてくださったのです。イエス様にとって彼らは世の中で迷いながら、悩み苦しんでいる羊のようでしょう。それは第1朗読にもよく記されていますが、散り散りになっている羊の群れに向かう牧者の心と同様です。イエス様は真の牧者として神様の憐れみと慈しみ、愛の御心を持って、世の中で彷徨いながら弱ってしまった人々を探し、一つの群れとするために来られました。そして、再び来られる時、すべての国のすべての人たちを集め、ご自分の国に相応しい真の民と、そうではない人たちとを分けて裁かれます。その時、世の中の国籍や人種、権力や財力、地位、職業などは意味がないでしょう。唯一の王であるイエス様はそういったこの世のものから死に至るまで、つまり、人々を苦しめるすべてを滅ぼし、真の民だけを受け入れてくださるのです。それが今日の第2朗読の内容で、私たちはそれに希望を置いて、この信仰の道を歩んでいるのです。

もう1年が経ちましたが、去年、私達は教皇様の来日という素晴らしい賜物を神様から頂きました。その訪問によって日本のカトリックの存在感も高まり、信者の皆さんも励まされたと思います。さて、その訪問を持って、以前は法王と呼ばれた教皇様はやっと教皇という言葉で呼ばれることになりました。しかし、教皇は「僕たちの僕」、つまり、全ての人に仕え、それを自分の当たり前の仕事とする人です。その教皇様は至る所で褒められたり、歓迎されたりしますが、個人的に印象的なことは、教皇様の赤ちゃん達に向き合う姿です。その向き合う姿には人種や国籍などの差別が一切ありません。自分の国の子供も、敵国の子供も、皆、教皇の懐に抱えられ、祝福をもらえます。教皇のその姿はただのジェスチャーではなく、真の平和の王であるイエス様の僕としての姿でしょう。1年前、「すべてのいのちを守るため」というスローガンが掲げられ、私たちは命の意味について、改めて考えるようになりました。しかし、今年に入ってからは新型コロナウイルスで多くの命が失われているし、世界のあちこちで病気や飢饉、戦争や紛争、また、あらゆることで苦しめられている人が数えきれないほどいます。そこに私達の王がおられます。その王に仕え、また、その命を守るため働くことこそが、真の平和の王であるイエス様の僕らしい様子だと思います。イエス様は全ての命を守る為、ご自分の命を捧げ、愛による救いと平和の道を示されました。そのように私達もすべてのいのちを脅かしたり、平和を崩したりする悪とその力を退け、イエス様の愛の道を歩み、その愛を実践すべきです。そうすれば私達の席は永遠の王であるイエス様の右側に備えられるでしょう。このミサの中で、私たち一人一人が王であるイエス様の僕として生きることができるように、神様の恵みと勇気と力を祈り求めましょう。

原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒2020年11月22日主日の説教 

★Please click here for the FURIGANA version)  ⇒2020年11月22日姜神父様のお説教ふりがな付き

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