子供の頃、わたしが住んでいたところには、子供たちにとって「夢のおじさん」が度々やって来ました。彼は村の人たちが耕していた田んぼの間の細いあぜ道を、自転車に乗って来ましたが、その自転車にはいつも大きな荷物が載せられていました。彼は、まるでサーカスの曲芸のようにその細い道を走って来て、多くの子供たちに囲まれていました。それは彼の自転車に、様々なおもちゃや、犬、ウサギなどのペットが載せられていたからです。子供達は皆、それぞれ自分の欲しい物があったのですが、お金がなかったので、そのおもちゃやペットを触ったりするだけでした。それで、次の訪問の時に自分の子供の欲しいものを持ってくるようにと、おじさんに頼んだりする親もいました。わたしの母もわたしのために小さな電車のおもちゃを頼んだことがあります。一週間後にそれを持ってくるという約束を聞いて、その七日間、胸をワクワクさせながら待ちました。しかし、約束した日は朝からずっと雨が降り、結局彼は来ませんでした。それからもう一週間後、私は朝からその細い道を見つめながら、彼の姿が早く見えないかなと心待ちにしていました。その二週間という時間、その細い道が何と長く感じられたことでしょう。そして、ついにその大きな自転車がやって来て、私は待ちに待ったおもちゃを手に入れることができました。その時の情景は今も脳裏に写真のように鮮明に残っていますが、わたしにとってその道は期待と、ときめきと、希望の道でした。

今日は待降節第1主日で、今日から教会の新しい1年が始まります。待降節とは、神様が遣わされるメシアであるイエス様の誕生を待つ期間で、大体、4週間になります。この4週間は、アダムの原罪からキリストの降誕までの4千年を表し、祭壇の前にも4本の特別なろうそくが用意されます。その一本は千年を意味しますが、今日から毎週、蝋燭の数を一本ずつ増やしながら火を灯し、その4千年を記念するのです。また、この4本の蝋燭はそれぞれ色が異なり、最も濃い紫から始まり、少しずつ薄くなって、最後には真っ白となります。それは暗闇から光へ、絶望から希望へ、また、悲しみから喜びへという意味があります。つまり、神様はイエス様を通して、すべての時代のすべての人を罪と死から解放し、救いの光と希望と喜びに導いてくださるということです。そういう意味で、待降節はそのイエス様の来られる道に、自分自身の心と体を振り向ける期間として、私たちはこの4週間、イエス様の誕生を準備するのです。

その準備の為には、先ず、各々自分の今までの生き方を顧みることが必要です。今日の第1朗読で、預言者イザヤは神様に切に祈っています。その祈りは、何と神様がご自分の民であるイスラエルを「道から迷い出させ」、その民の「心を頑なにされ」、また、神様を「畏れないようにされた」という言葉から始まります。それは、まるで、神様を責めているような感じを受けます。しかし、それはイスラエルの罪を告白することで、実際には自分たちに全ての責任があるということを申し上げているのです。イザヤは自分たちが汚れたものとなり、いかに正しい業を行ってもそれは汚れた着物のようになったと言いましたが、それは自分たちの偽善についての告白でした。心は偽善と不信仰で満たされているのに、そのまま行う良い業は何の意味もないということです。イザヤは自分たちが神様の道から離れてしまって、まるで、命を失った枯れ葉のようになり、更に深い悪へ運ばれ、誰も神様のもとに立ち返ろうとはしていなかったことを明らかにしました。そう言ったうえで、イザヤは自分たちを粘土に、神様を陶工に例えながら、神様の慈しみと赦し、憐れみと愛を祈り求めました。要するに、人間は神様のことを考えないと心が頑なになり、神様を恐れないようになって、罪の道を歩むことになります。そして、そのまま歩み続けたら、人は結局命を失うことになってしまうのです。その罪と死の道から離れて神様への道に足を運ぶなら、人は命を回復することができるでしょう。

今日の福音で、イエス様はご自身の再臨の時について、ある例え話を用いて言われました。その例え話はある家の主人が旅に出る前、僕達に様々な仕事を任せ、責任を果たさせることから始まります。その中で、門番には、目を覚ましていなさいと言う特別な指示、つまり、主人が家に帰った時、すぐに門を開けるように、という任務が与えられたのです。その為、その僕は夕方にも、夜中にも、鶏の鳴く頃にも、明け方にも目覚めていなければなりません。勿論、他の僕達も自分達の仕事を行うはずですが、門番はその家の人達は勿論、外の人達の出入りもチェックし、その家とそこに住んでいる人達の命を守る責任を担っているのです。それは大変苦しい仕事に違いないと思いますが、主人が帰って来るまで、彼はその仕事を辞めても、それから逃げてもいけません。ただ主人だけが彼をその仕事から解放することができるのです。その時まで、彼に必要なのは強い忍耐心と主人に向かう希望、また、その家の人々への愛でしょう。きっと、家に帰って来た主人はその僕を誉め、また、大きくて素晴らしい報いを与えてくれると思います。イエス様はこの例え話を通して、私達にその僕と同じ姿勢を求めておられるのです。つまり、イエス様ご自身の再臨の時まで、皆がそういう忍耐と希望を持って、互いに愛し合うことによって、互いの命を守るようにということです。そういう意味で、待降節は、ただ、クリスマスを準備するという期間だけではなく、再び来られるイエス様との再会の為、私達が改めてそういう姿勢を学び、強める期間となるのです。併せて、今日の第2朗読の使徒パウロの励ましの言葉のように、その日まで、私達がイエス様から学んだ愛の教えとその生き方を疑うことなく、むしろ、神様の愛と慈しみにより頼みながら、この信仰の道を歩み続けることも大事なことだと思います。

最後に、昨年来日された教皇様は神様が私達にどれほど大きな仕事を任せて下さったのかを、改めて確認させて下さいました。それは「すべてのいのちを守る」ことです。どうしたらそれをうまく行うことができるのかと問われたら、私は「愛を守ることによってできる」と答えたいと思います。神様が任せてくださったすべてのいのちを守る為に必要なことを、イエス様はご自分の命を捧げるほどの愛を通して教えて下さいました。そのイエス様の歩まれた道は、命と愛とが満ち溢れる道だったに違いありません。同じように、私達の歩む道もそうなるべきです。私達一人一人のその道を通して、イエス様は私達と一緒に多くの人々、特に苦しみの中にある人々の所に行き、彼らとも共にいてくださいます。その時、私達の道は、もはや、自分だけの道ではなく、イエス様の道となるのです。私達が赤ちゃんのイエス様の為に愛の道を整えることができるよう、このミサの中でお祈り致します。

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