韓国の降誕祭のミサは「馬小屋への礼拝」という特別な儀式から始まります。これは勿論、ミサに加えられた儀式で、イエス様の誕生の現場に信者の皆さんを招き、感謝と賛美を捧げるための儀式です。普通、韓国カトリック教会の馬小屋は、祭壇の前、或いは、傍に用意されますが、12月24日までは馬小屋は空っぽです。そして24日の夜、真っ暗な中でミサが始まりますが、その時、馬小屋のすべての聖像を抱いた奉仕者たちは、赤ちゃんのイエス様の聖像を抱えた司祭と一緒に入堂し、馬小屋のそれぞれの場所に聖像を置きます。そして最後に、司祭は赤ちゃんのイエス様を安置し、誰より先に、改めてお生まれになったイエス様に向かって腰を屈めながら礼拝し、続いて信者の皆さんが行列してイエス様を礼拝します。それから降誕節の間、信者さんたちは個人的にその馬小屋の前に立ったり、或いは、膝を屈めたりして、降誕の神秘を黙想したりします。神学生のときには、毎年新しい馬小屋を作るのがとても悩ましくもありましたが、ようやく作った馬小屋の前で、信者さんたちが黙想している様子を見つめながら、作る間の悩みや重かった心が癒されるのを感じました。ところが、面白いことに、「馬小屋は詰まらなければ詰まらないほど、人気がある。」ということが分かりました。言い換えれば、貧しくて詰まらない馬小屋であればあるほど、その前で祈る信者の数が多いということです。きっと信者さんたちは、その貧しい馬小屋の前で、神様の救いの不思議な神秘をより深く感じることができるからでしょう。

今日の福音で、洗礼者ヨハネは自分について、また、メシアであるイエス様についてはっきり証ししました。エルサレムのユダヤ人たちから遣わされた祭司やレビ人たちは、ヨハネが「メシアなのか、それともエリヤなどの昔の偉大な預言者なのか」と確かめたかったはずですが、ヨハネは「自分はメシアでも、エリヤでも、また、昔の預言者でもない。」と答え、更に、「私は荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」と明言しました。そこでファリサイ派に属していた彼らはヨハネの洗礼について尋ねましたが、ヨハネは「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」と言ったうえで、最後に「その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない。」と宣言しました。きっと、エルサレムからヨハネのもとにやってきた人たちは、ヨハネがメシアでも、エリヤでも、また、昔の預言者でもないことを聞いて、彼に対する興味を失い、或いは、ほっとしたかと思います。なぜなら、彼らはヨハネが自分たちを遣わした人たちが思っているような人でないことが分かったし、それをヨハネ自身の言葉で報告することもできたからです。しかし、この、洗礼者ヨハネとエルサレムから遣わされた人たちとのやり取りは、意味深いメッセージを私たちに語っています。それは神様の救いの神秘に関することで、一言でまとめたら、神様の救いの神秘が秘められているということです。

福音の中でヨハネは、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」と言いました。その言葉は、まるで、「あなたがたの中にメシアであり、救い主である方がおられるのに、あなたがたはその方を知っていない。」という風に聞こえます。また、その神秘が神様によって選ばれた人たちだけに知らせられるということを示した言葉のようにも聞こえます。恐らく、エルサレムからやってきた人たちは自分たちが知っていたメシア、つまり、律法や預言者の預言に語られていたような、偉くて偉大な人を期待していたはずです。ですから、当時の偉大な人物であったヨハネに色々尋ね、また、確かめたわけです。しかし、ヨハネが語ったのは、自分よりはるかに高く、昔の預言者たちよりはるかに聖なる方のことでした。その方に比べて、自分はその方の履物のひもにさえ手を触れることができない者あることを、彼ははっきりと明言したのです。エルサレムからやってきた愚かな人たちはヨハネの話を聞いて、彼よりもっと偉い人を待ち、また、探そうとしたに違いありません。残念ながら、彼らには神様の真の救いとその神秘を悟ろうとする心が備えられていませんでした。むしろ、彼らが持っていたのは高慢で高ぶる心、自分たちこそ神様に近づいているという傲慢、世の中の現世的なものへの欲心、人の罪や弱さだけを調べようとする残忍さと冷酷さだけでした。神様はそのような者たちに、慈しみ深い神様の救いの神秘を見せられるはずがないでしょう。

神様はご自身の救いの計画を、ご自身が選んでおかれた人々だけに見せてくださいました。彼らは世の中で偉いと言われる人でも、大きな権力を持っている人でもありませんでした。また、様々な知識や経験、富と栄誉と名誉が満ち溢れる人たちでもありませんでした。むしろ、彼らは神様だけが自分たちを救ってくださる唯一の主であることを、そのまま素直に認め、それに従順とする人たちでした。その神様の救いの計画をなしとげられたイエス様は、世の中のどこからも助けと力と慰めを得ることができない最も弱い人たちのために来られました。そのイエス様が宣べ伝えられ、また、行われたのは、罪の赦しによる救いでした。確かに、イエス様は神様が望んでおられたすべての人の救いを、ご自分の十字架の死によって完成されました。神様が計画された救いとは、すべての人の命を守り、更に、永遠の命で豊かにすることで、イエス様はご自身の命を捧げて、それを全うされました。そのイエス様の血によって、すべての時代のすべての人が神様からの罪の赦しを得て、永遠の命に与ることができるようになったのです。ですから、私たちもイエス様のように、愛し合い、赦し合うことによって皆の命を守り、また、豊かにすべきです。

私達は今、イエス様の誕生を待っていますが、その私たちに今日の二つの朗読は次のようなことを勧めています。それは救いの喜びを抱いて、絶えず祈ること、どんなことでも感謝すること、イエス様の血によって贖われた人としての清さと聖性を保つことです。また、神様がイエス様を通して示されたように、自分を低くし、もっと謙遜な人となるために務めることも必要です。貧しい馬小屋が人を惹きつけるように、私たちの心の馬小屋ももっと貧しくならなければなりません。イエス様は次のようにおっしゃいました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のようなものにお示しになりました。」と。この御言葉通り、イエス様が望んでおられる馬小屋は、打ち砕かれた心、悔い改めた心、へりくだる心、貧しい心なのです。降誕祭まで、私たち皆の心にそういう馬小屋を作り、そこでイエス様を喜んで迎えることができるよう、このミサの中で心を込めてお祈りいたします。

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