今日はイエス様のヨルダン川での洗礼を記念する主の洗礼の祝日です。神様はイエス様の洗礼を通して、全ての人の救いの計画を公にされました。イエス様はご自身の洗礼をもって、メシアとしての道を歩み始められたのです。その洗礼はイエス様が神様に従う人であることを示し、それこそが神様のみ旨に適うことであることを表す出来事なのです。それは今日の福音で「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という、天から聞こえた神様のみ言葉ではっきりと表わされています。でも、それはただイエス様についての御言葉というだけではなく、私達信仰のある人達に向かう御言葉でもあります。つまり、私達も神様の御心に適う人とならなければならないということです。実際、私達が受けた洗礼はイエス様の洗礼から始まり、イエス様のように生きることによって完成されるものです。ですから、イエス様のようにならないと、私達の洗礼は意味のないものになるわけです。今日はこれを考えながら、私達の生き方や歩むべき道について、信者の皆さんと共に黙想したいと思います。

先程話したように、イエス様はご自分の洗礼をもって、人類のメシアとしての道を歩み始められました。そのイエス様は苦しんでいる人々に寄り添い、また、罪人や弱い人々の友となられました。病気のある人には慰めと癒しを与え、死者に対しては命を取り戻して下さいました。他方、世の中の力を振るって人を苦しめる者達や、律法の様々な規則に拘って多くの人々を罪人と裁いたファリサイ派の人達とは強く戦われました。世の中の権力や富、名誉などを得る為に全ての人々が争い合っていた時、イエス様はただ、神様の慈しみと愛、正義と平和を訴えられたのです。こうして、イエス様は十字架の上で、神様と人間との仲介者、また、人と人との仲介者として、手を広げて死を迎えられたでしょう。私達も同様です。私達も世の中の悪い風潮、例えば、争いの文化や死の文化と戦いながら、逆に、愛と平和の文化、命の文化を築く為に務めるべきです。その為にも、信仰のある人として互いに愛し合い、赦し合い、支え合うことが大事なことです。神様が教会を通して私達に洗礼をお授けになったのは、私達をそういう人とする為でしょう。

ここでちょっと、ヨハネの言葉にも注目したいと思います。ヨハネは後から来られる方のことを語りながら、「自分は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と言いました。ヨハネも、イエス様がその方だとは思わなかったようです。或いは、その方、すなわち、イエス様が何をなさる方なのかが分からなかったのかもしれません。今日の福音によると、彼が知っていたのは、その方が聖霊によってすべての人に洗礼を授ける方である、ということだけでした。でも、ヨハネが知っていたその方、つまり、イエス様が聖霊で洗礼を授ける前、先になさったのは、ヨハネが思いもかけなかったことで、それは神様の慈しみと愛を証しすることでした。イエス様はその為、ご自分の命を捧げ、すべての人のための生贄となられたのです。言い換えれば、イエス様は聖霊で洗礼を授ける偉大な方として現れる前、必ずご自分の命を捧げねばならなかったということです。

ヨハネはそこまでは知らなかったかもしれません。しかし、神様はヨハネが知っていたメシア、つまり、イエス様の実際の姿を通して、この世の中で讃えられるべき人は神様ご自身の御心に沿って生きる人であることを明らかにされました。この世の中では、権力とか財力、また、豊かな知識とか経験、経歴などを持っている人たちが褒めそやされますが、神様は違います。神様にとって褒められるべきことは愛を実践することで、そういう人こそが褒められるべきだということです。確かに、いつの時代も国においても、様々な部門で偉い人たちが誉められ、彼らが優秀な人の模範のように注目されます。また、そういった人たちの声が絶対の真理のように見なされます。一方、愛を実践する人、慈しみや憐れみを実践する人は尊敬されても、あまり同じように生きたくないものでしょう。しかし、社会において、特に、教会においては、愛を実践する人たちが誉められ、また、模範として尊敬されるべきです。単なる知識や経験、経歴の豊かさが評価され、それを持つ人が信仰とか奉仕の模範とされたり、正しい教えとなったりするのは、教会においては相応しくない、また、望ましくないことでしょう。きっとその塵のような知識、経験、経歴は彼らの武器となって、他人を傷つけるはずです。神様の慈しみやイエス様の愛がそれらのことに負けてはいけないし、それらのことが優先となってもいけません。

さて、ヨハネの洗礼はヨルダン川で行われたので、多くの人々がそこまで足を運び、ヨハネから洗礼を受けました。きっと彼らは遠い荒れ野の道を歩いてヨハネと出会い、その長い旅路で汚れてしまった自分の身を洗ったでしょう。彼らは自分たちの汚れが川で洗い流されるのを見つめたはずです。その汚れはただ、体の汚れではなく、世の中の様々な汚れだったのです。彼らはその汚い流れを見つめながら、自分たちが今までどれほど世の中の汚れに染まってきたのかを顧みたに違いありません。そして、新しい人としての道を歩むことを望んだでしょう。その中にイエス様もおられました。イエス様は世の中の汚れで苦しんでいたその群衆とともに歩きながら、人と共におられる神様の愛と慈しみを示してくださり、更に、ヨハネから洗礼を受けた人々に人生の新しい道を示されました。それが神様のみ旨に適う人となる道、すなわち、愛と慈しみに生きる人たちの道だったのです。そして、イエス様はそのヨルダン川にご自身の身を浸して、真の洗礼の泉を教会に与えてくださったのです。私たちが受けた洗礼は、ただ水で額を洗うという儀式だけではなく、世の中のすべての汚れを洗うこと、また、その汚れの全てを投げ捨てるということを意味するのです。

新型コロナウイルスのせいで、再び緊急事態宣言が発表されました。この病気はまだ、確かな正体をあらわにしていませんが、私は、今まで人類が果たしてなにを求めてきたのかを少し顧みるよう、警鐘を鳴らすためではないかという気がします。今日の第1朗読が語るように、それは、渇きを癒せないもの、飢えを満たせないものだったのでしょう。世の中の富、権力、名誉、知識、知恵を頼みとし、それを手に入れるために争い合いながら、皆が死の道を歩んできた人類は、この新型コロナウイルスのさなかでも、その愚かな争いをやめようとしていません。この状況の中で、私たち信仰のある人たちはイエス様からこの危機を乗り越える道を見つけ、また、学ぶべきです。それは軽くて冷たい自分の頭の知識や塵のような経験ではなく、神様の愛に従うこと、神様と隣人を愛すること、神様のみ旨に適う人となることでしょう。先が見えない今の状況の中で、何よりも先に求められているのは、私たちが頂いた洗礼の意味を活かし、実践することだと思います。このミサの中で、そういう恵みを祈り求めましょう。

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