わたしも年を取って、若かった甥や姪もすでに結婚し、彼らにもそれぞれ子どもたちがいます。韓国にいたときにはたまに彼らと一緒に食事をしました。その幼い子どもたちが、ご飯やおかずをあれもこれもちゃんと食べている様子を見ていると、その姿だけで自分はお腹がいっぱいになるような気持ちになりました。そして、わたし自身が子供の時、おじいさんやおばあさんから聞いた話が、ふと頭によぎりました。それは「わたしはこの子たちが食べるのを見るだけで、お腹がいっぱいになるのよ。」という話でした。その小さな子どもたちが食べている姿自体が、まるで、ご飯やおかずのようになり、見ているだけで幸せいっぱいになるのでしょう。そして、別に多く食べなくても満腹したような気持ちになるわけです。この気持ちは信者の皆さんもお分かりになると思いますが、今日の福音の中でのイエス様の心もそうだと思います。

今わたしたちは復活節を過ごしていますが、今日の福音は受難の前の最後の晩さんで教えられた「愛の掟」です。復活節なのに、最後の晩さんのことを聴くのはちょっと不思議なことでしょう。でも、ある観点から見ると、イエス様の復活とはイエス様ご自身が教えてくださった掟の勝利の証しで、今日の福音は、もう一度わたしたちを愛の掟が授けられた現場に招き、その愛の掟と復活との関係性を示しているのです。

考えてみたら、イエス様の最後の晩さんは、弟子たちにとってはとても悲しくてつらい思い出の記憶だったに違いありません。きっと彼らは、その食事がイエス様との最後の晩さんとなるとは、思いもよらなかったはずです。その時、イエス様は一人一人の弟子たちの足を洗い、それから、「互いに愛し合いなさい。」という掟を与えてくださいました。そして、その掟を守り、また、実践することによって、彼らがイエス様の弟子であることを皆が知るようになる、とも言われました。ところが、イエス様はその掟を与える前、天の御父がイエス様に与える栄光、また、イエス様を通して御父がお受けになる同じ栄光について語られました。それは勿論、神様の慈しみと愛による救いの御業の完成である復活のことで、イエス様はそれを愛によって成し遂げられました。要するに、イエス様は弟子たちに愛の掟を与えられましたが、その掟に従って生きることによって、彼らも同じ栄光、すなわち、復活の栄光にも与れるということをはっきり約束してくださったのです。言い換えれば、「互いに愛し合う」ことはイエス様の弟子であることの証しであり、また、復活の栄光に与るための資格であるということです。そして、イエス様のその約束は今のわたしたちにも有効なもので、わたしたちも洗礼によってイエス様の弟子としての道に招かれ、また、その道を歩み続けるための力を得るために、イエス様の最後の愛の晩さんであるこのミサに与っているわけです。

ここで、韓国のある神父様が「毎日のミサの今日の黙想」というコラムに書いていることを少し分かち合いたいと思います。次のような内容です。「キリスト教の掟は『愛しなさい。』という一言で要約できます。でも、この掟の目的語は旧約と新約、また、新約の中でも共観福音とヨハネの福音が異なります。先ず、旧約の代表的な目的語は『主である神様』で、申命記6章5節には『あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』と書いてあります。イエス様も神様を愛することが第一の掟であると言われました。そして、イエス様はこの掟にレビ記19章18節の隣人に対する掟を加え、『愛しなさい。』という掟の目的語が二つ、つまり、神様と隣人であることを明らかにされました。しかし、ヨハネの福音では、その二つの目的語が見つかりません。今日の福音のように、イエス様が与えられた新しくて唯一の掟は『互いに愛し合いなさい。』ということだからです。」話は以上ですが、わたしはとても深く共感しました。確かに、今日の福音でイエス様は「互いに愛し合いなさい。」とおっしゃり、更に、それを実践することによって、彼らがイエス様の弟子であることが証しされると言われました。その最後の晩さんは悲しいはずなのに、愛の掟を授けられるイエス様は穏やかな笑顔で、まるで、「あなたがたが愛し合っているだけで、わたしも愛されることになるのですよ。」とおっしゃっているようにも見えます。

さて、今日の福音でイエス様は「わたしがあなたがたを愛したように」と言われました。それはイエス様ご自身が愛の手本であることを示す御言葉で、自分なりの愛で愛することではなく、イエス様の愛し方で愛しなさいという意味です。その愛は「友のために自分の命を捨てるほどの愛」で、イエス様はそれを自ら実践されました。イエス様の愛は罪びとへの赦し、病人への慰め、貧しい人への助け、弱い人への支え、また、忍耐と寛容、慈しみと憐れみ、親切と平和などを通しても表されます。自分なりの愛で愛する人は、自分だけを愛していて、自分だけが愛されるべきだと思っているに違いありません。イエス様の愛で愛する人は、自分を捨てて、謙遜な心でただイエス様の愛だけを考えながら愛します。最後に、イエス様は「互いに愛し合いなさい。」とおっしゃいました。イエス様の愛は、相手の愛を量りながら、その分だけの愛で愛することではありません。また、相手が先に愛してくれてから自分も愛する、という形の愛でもありません。イエス様が教えられたのは、あくまでも「互いに愛し合う」ことです。その愛を実践し、神の国に入るには、今日の第一朗読に書いてあるように、多様な反対や迫害、苦しみや悩みが伴うはずですが、それに打ち勝ったら、わたしたちには今日の第二朗読が語っているように、復活の栄光と永遠の御国での喜びが与えられるに違いありません。ですから、これからもイエス様の愛で互いに愛し合ってまいりましょう。

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