典礼暦に沿って、わたしたちは聖霊降臨の祭日をもって、五十日間の復活節を盛大に終えました。その聖霊降臨の祭日から、二週間にわたって二つの祭日を祝いました。それは、三位一体の祭日とキリストの聖体の祭日ですが、その三つの祭日を過ごしながら、教会はイエス様の死と復活を証しするために誕生した共同体であることと、その共同体は三位一体の愛の交わりに招かれていることが明らかにされました。また、教会はイエス様の最後の晩さんの記念であるミサを通して愛の聖体の神秘に与り、それによって、私たちはイエス様の証人としての使命を果たすための力を得ることになるのです。つまり、聖霊降臨によって生まれた教会は、三位一体の愛の交わりに与り、また、イエス様のご聖体から愛の力を得て、イエス様の道を歩み続けることができるということです。その三つの祭日を終えたら、教会は典礼暦の最後の主日である「王であるキリスト」の祭日まで、普通の年間主日を過ごすことになります。その典礼暦の流れが示すのは、「教会とは、まことの王であるキリスト・イエス様の王権にも与る共同体である。」ということです。しかし、その王権に与る栄光は、今すぐ授けられるものではありません。それはあくまで、教会自身、つまり、信仰のある人たちがイエス様の愛を忠実に学び、また、その愛の道を最後まで歩き抜くことによって授けられる栄光なのです。今日から「王であるキリストの祭日」までの年間主日の御言葉は、わたしたちをイエス様の愛の道に招いてくれるものですが、特に今日の御言葉は、わたしたちがどういう心を持ってその道を歩むべきかを教えてくれるものです。

今日の第一朗読で、神様は預言者エリヤの後継者としてエリシャを選ばれ、エリヤに彼のところに行って預言者に任命するようにと命じられました。そこで、エリヤはエリシャを訪ね、会って彼に自分の外套を投げかけましたが、その不思議な行動からエリシャはすぐ、自分がエリヤの後継者として神様に選ばれたことが分かったようです。それで、エリシャはエリヤに両親との別れの挨拶を許してほしいと願いましたが、それは新しい使命についてためらうことでも、その使命から逃げることでもありませんでした。むしろ、彼は自分の十二軛の牛、つまり、二十四匹の牛の中で二匹を屠り、それを人々に振る舞って食べさせましたが、それは、自分の固い決意を表すことだったでしょう。こうして、彼は今までの自分と完全に別れてすべてを神様に任せ、エリヤの後継者となって預言者としての新しい人生の道を歩み始めたのです。その道とは、神様への信仰の道から離れてしまったイスラエルの民全体を、神様に立ち返らせる道でした。でも、その道は決して楽な道でも、栄光に満ちた道でもありませんでした。むしろ、至る所で反対されたり、迫害されたりする、命がけの道でした。しかし、エリシャは神様を信じ、神様に支えられて、その道を忠実に歩みました。

それと同じく、今日の福音で、イエス様はご自分の弟子たちにも同じ姿勢を求められましたが、一見、もっと強くて固い信仰を要求しておられるようにも見えます。エリシャには両親との別れの挨拶を許されましたが、イエス様の弟子たちにはそれすら許されないような気がするほどです。イエス様の道はそれほど急いで、また、今すぐ歩まねばならない道なのです。その道に入ったなら、ためらうことも、振り向くことも許されず、その道を歩み始めてからは、ただイエス様と共に一歩一歩、歩み続けるだけです。その道を歩む間の苦しみや悩みはどれほど大きなことでしょう。それは安心して枕するところもない道であり、時には、人間的な絆も諦めざるを得ないこともある道なのです。でも、それはイエス様がご自分に従う人たちを脅かすためではなく、彼らがいつもご自分と共にいるようにするためのすべだったのでしょう。イエス様が望まれるのは、信仰のある人々、つまり、わたしたちがいつもイエス様の愛にとどまり、その愛を学ぶことです。また、イエス様が十字架上で成し遂げられた救いのみわざ、すなわち、神様の慈しみと愛による罪の赦しと死からの解放を宣べ伝えつつ、一人一人の生活の現場で、イエス様の愛を証しすることなのです。勿論、そのような生き方には度々涙も、苦しみも、悩みも伴うはずです。しかし、イエス様はわたしたちが独りで、また、わたしたち自らがそのような困難や逆境に向き合うようにはされません。イエス様はわたしたちが洗礼の時いただいた聖霊を通して、いつもわたしたちと共におられ、わたしたちと共に働いてくださいます。今日の第二朗読にも記されていますが、わたしたちがその聖霊に導かれて生きて行こうとするなら、神様はその聖霊を通してもっと豊かな恵みでわたしたちを満たしてくださり、さらに、わたしたちに必要なことも叶えてくださいます。しかも、わたしたちにはイエス様がいつも共にいてくださるしるしとして、ミサ、すなわち、ご聖体の愛の秘跡があり、その秘跡にふさわしく与るための赦しの秘跡があります。ですから、これからもご聖体の秘跡や赦しの秘跡の恵みで力づけられ、支えられて、この信仰の道を歩んでまいりましょう。それによって、わたしたちはイエス様にもっと近づいて、いつもイエス様とともに働けるようになるのです。

さて、今日の福音でイエス様を歓迎しなかったサマリア人の村について、ヤコブとヨハネは天からの火でその村を焼き滅ぼすことをイエス様に申し出ましたが、イエス様は彼らを戒められました。なぜなら、イエス様はかつてご自身が世に遣わされた目的についておっしゃいましたが、それは「世を滅ぼすためではなく、救うため」だったからです。わたしたちもイエス様のその目的を共にしなければなりません。わたしたちに授けられたのは、裁く権限、責める権限でなく、ただ愛する権限、赦す権限なのです。それを心に留めて、これからも一緒にこの信仰の道を歩み続けましょう。

典礼暦に沿って、わたしたちは聖霊降臨の祭日をもって、五十日間の復活節を盛大に終えました。その聖霊降臨の祭日から、二週間にわたって二つの祭日を祝いました。それは、三位一体の祭日とキリストの聖体の祭日ですが、その三つの祭日を過ごしながら、教会はイエス様の死と復活を証しするために誕生した共同体であることと、その共同体は三位一体の愛の交わりに招かれていることが明らかにされました。また、教会はイエス様の最後の晩さんの記念であるミサを通して愛の聖体の神秘に与り、それによって、私たちはイエス様の証人としての使命を果たすための力を得ることになるのです。つまり、聖霊降臨によって生まれた教会は、三位一体の愛の交わりに与り、また、イエス様のご聖体から愛の力を得て、イエス様の道を歩み続けることができるということです。その三つの祭日を終えたら、教会は典礼暦の最後の主日である「王であるキリスト」の祭日まで、普通の年間主日を過ごすことになります。その典礼暦の流れが示すのは、「教会とは、まことの王であるキリスト・イエス様の王権にも与る共同体である。」ということです。しかし、その王権に与る栄光は、今すぐ授けられるものではありません。それはあくまで、教会自身、つまり、信仰のある人たちがイエス様の愛を忠実に学び、また、その愛の道を最後まで歩き抜くことによって授けられる栄光なのです。今日から「王であるキリストの祭日」までの年間主日の御言葉は、わたしたちをイエス様の愛の道に招いてくれるものですが、特に今日の御言葉は、わたしたちがどういう心を持ってその道を歩むべきかを教えてくれるものです。

今日の第一朗読で、神様は預言者エリヤの後継者としてエリシャを選ばれ、エリヤに彼のところに行って預言者に任命するようにと命じられました。そこで、エリヤはエリシャを訪ね、会って彼に自分の外套を投げかけましたが、その不思議な行動からエリシャはすぐ、自分がエリヤの後継者として神様に選ばれたことが分かったようです。それで、エリシャはエリヤに両親との別れの挨拶を許してほしいと願いましたが、それは新しい使命についてためらうことでも、その使命から逃げることでもありませんでした。むしろ、彼は自分の十二軛の牛、つまり、二十四匹の牛の中で二匹を屠り、それを人々に振る舞って食べさせましたが、それは、自分の固い決意を表すことだったでしょう。こうして、彼は今までの自分と完全に別れてすべてを神様に任せ、エリヤの後継者となって預言者としての新しい人生の道を歩み始めたのです。その道とは、神様への信仰の道から離れてしまったイスラエルの民全体を、神様に立ち返らせる道でした。でも、その道は決して楽な道でも、栄光に満ちた道でもありませんでした。むしろ、至る所で反対されたり、迫害されたりする、命がけの道でした。しかし、エリシャは神様を信じ、神様に支えられて、その道を忠実に歩みました。

それと同じく、今日の福音で、イエス様はご自分の弟子たちにも同じ姿勢を求められましたが、一見、もっと強くて固い信仰を要求しておられるようにも見えます。エリシャには両親との別れの挨拶を許されましたが、イエス様の弟子たちにはそれすら許されないような気がするほどです。イエス様の道はそれほど急いで、また、今すぐ歩まねばならない道なのです。その道に入ったなら、ためらうことも、振り向くことも許されず、その道を歩み始めてからは、ただイエス様と共に一歩一歩、歩み続けるだけです。その道を歩む間の苦しみや悩みはどれほど大きなことでしょう。それは安心して枕するところもない道であり、時には、人間的な絆も諦めざるを得ないこともある道なのです。でも、それはイエス様がご自分に従う人たちを脅かすためではなく、彼らがいつもご自分と共にいるようにするためのすべだったのでしょう。イエス様が望まれるのは、信仰のある人々、つまり、わたしたちがいつもイエス様の愛にとどまり、その愛を学ぶことです。また、イエス様が十字架上で成し遂げられた救いのみわざ、すなわち、神様の慈しみと愛による罪の赦しと死からの解放を宣べ伝えつつ、一人一人の生活の現場で、イエス様の愛を証しすることなのです。勿論、そのような生き方には度々涙も、苦しみも、悩みも伴うはずです。しかし、イエス様はわたしたちが独りで、また、わたしたち自らがそのような困難や逆境に向き合うようにはされません。イエス様はわたしたちが洗礼の時いただいた聖霊を通して、いつもわたしたちと共におられ、わたしたちと共に働いてくださいます。今日の第二朗読にも記されていますが、わたしたちがその聖霊に導かれて生きて行こうとするなら、神様はその聖霊を通してもっと豊かな恵みでわたしたちを満たしてくださり、さらに、わたしたちに必要なことも叶えてくださいます。しかも、わたしたちにはイエス様がいつも共にいてくださるしるしとして、ミサ、すなわち、ご聖体の愛の秘跡があり、その秘跡にふさわしく与るための赦しの秘跡があります。ですから、これからもご聖体の秘跡や赦しの秘跡の恵みで力づけられ、支えられて、この信仰の道を歩んでまいりましょう。それによって、わたしたちはイエス様にもっと近づいて、いつもイエス様とともに働けるようになるのです。

さて、今日の福音でイエス様を歓迎しなかったサマリア人の村について、ヤコブとヨハネは天からの火でその村を焼き滅ぼすことをイエス様に申し出ましたが、イエス様は彼らを戒められました。なぜなら、イエス様はかつてご自身が世に遣わされた目的についておっしゃいましたが、それは「世を滅ぼすためではなく、救うため」だったからです。わたしたちもイエス様のその目的を共にしなければなりません。わたしたちに授けられたのは、裁く権限、責める権限でなく、ただ愛する権限、赦す権限なのです。それを心に留めて、これからも一緒にこの信仰の道を歩み続けましょう。