姜真求神父 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)の説教

 去年の4月15日、カトリック信者か否かにかかわらず、全世界は驚きのニュースを耳にしました。それはフランス・パリのノートルダム大聖堂の火事のことでした。そのニュースは全世界に知らされて、多くの人々がノートルダム大聖堂の近所を訪れてロザリオなどの祈りを捧げたり、聖歌を歌ったりし、或は、大聖堂の復元について議論し始めました。あれから早1年が経ちましたが、最近のニュースによると、復元の工事は中止されているそうです。なぜなら、今、全世界を脅かしている新型コロナウイルスの為、工事が続けられない状況になっているからです。今、全世界は深い不安や心配に包まれています。神様の憐れみと慈しみが、いつよりも必要な時だと思いつつ、各々が心を合わせて祈り、また、共同の責任感を持って行動すべきだと思います。

 さて、今日は神の慈しみの主日です。神様は罪の中で滅びの道を歩んでいた全ての命を救う為、キリスト・イエス様をお遣わしになりました。それは神様の愛と慈しみによる救いの御業で、私たちは自分では得ることのできない救いをイエス様の十字架の死と復活を通して得たのです。つまり、イエス様の十字架の出来事は、ある偉い人の尊い行動によったのではなく、罪びとである私達を赦そうとしておられる神様の御心によってできたということです。確かに、イエス様は罪びとの身代金として来られ、ご自身の命を捧げてくださいました。誰もが他人の罪を自分のこととしようとはしないでしょう。しかし、神様はご自身の過越しの小羊としてイエス様を私達の為に用意してくださったのです。

 元々、過越しの小羊はイスラエルの民がエジプトから解放された時、その時まで自分達に慣れていたエジプトでの習慣や奴隷としての生き方を洗う為の捧げ物でした。それはイスラエルの民を清める為のもので、神様はその生贄を通してイスラエルの民を新たにされて、新しい土地で住むことができるようにして下さったのです。ところが、イエス様は人間が自分の罪や悪習を洗うために準備した小羊ではなく、神様の小羊でした。言い換えれば、罪のない神様が全ての人間の罪をご自身のこととして受け止めて下さったということです。しかも、その罪を赦す為、神様はご自身の独り子を新しい過越しの為の小羊として用意されたのです。それで、私達はご聖体を拝領する前、「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、我らを憐れみたまえ。」と歌いながら、神様の憐れみと慈しみを讃えるのです。そして、ご聖体をいただき、互いに赦し合い、愛し合い、支え合うことを心に刻みます。

 そのイエス様は今日、ご自身の復活を疑っていた弟子達に現れ、先ず、平和を与えて、赦しについて仰いました。弟子達はユダヤ人を恐れていて、全ての門に鍵をかけていたでしょう。でも、イエス様は彼らの真ん中に立って、平和と赦しのみ言葉を聞かせて下さいました。しかし、その時、トマスはいませんでした。彼がどこにいたのかは分かりませんが、私はこの福音を読む度に、「なぜ、イエス様は彼がいなかった時に来られたのか。もしかして、わざとそうなさったのか。それとも、彼は他の弟子達とずっと一緒だったが、たまたま、その時だけいなかったのか。」という疑問がいつも頭をよぎります。

 確かに、トマスは復活されたイエス様が来られた時、そこにいませんでした。もしかすると、彼はイエス様の死と復活について、他の弟子達と口論したあまり、その集いから離れてしまったかもしれません。彼はイエス様の両手の釘跡に自分の指を入れ、また、イエス様の脇腹の傷に自分の手を入れてみなければ、イエス様の復活を信じないという、頑なで現実的な心を持っていました。そのような心は他の弟子達にとって理解できないことではありませんが、もしかしたら、彼のそういう考えで他の弟子達は傷ついていたかもしれません。イエス様はすでに、そのトマスや他の弟子達の弱い心をご存知でした。それで、他の弟子達に現れて、平和について仰せになり、更に、その平和は赦しから与えられることを悟らせて下さったのだと思います。その後、弟子達はトマスに会って、イエス様の復活について語りました。でも、それを聞いてもトマスはまだ変わりませんでしたが、とにかく、彼は弟子達の集いには戻ってきたと思われます。そこでイエス様は再び来られ、トマスの弱い心や信仰を強めて下さり、また、見ないのに信じる人の真の幸福について仰いました。そのイエス様の御言葉は、彼を責める為ではなく、むしろ、彼を赦し、また、励まして下さる為のみ言葉に違いありません。そして、その慈しみと憐れみの御心は、私たちに向かっても同じだと思います。

 今日の第1朗読で、私達は初代教会の様子を垣間見ることができます。それは本当に素晴らしいでしょう。しかし、事実、初代教会の信者さん達は罪びと、つまり、イエス様の死刑に賛同していた人達でした。彼らは聖霊を頂いた使徒達に赦され、イエス様の名による洗礼を受けて教会に迎え入れられたのです。彼らは自分の罪が赦されたという喜びに満たされて、いつも感謝と赦し、また、平和を分かち合うことに忠実だったことでしょう。もしかしたら、その教会の姿は他の人々の嘲りと妬みの的となり、迫害や様々な試練の原因になったかもしれません。しかし、教会は互いに励まし合い、支え合い、愛し合いながら、その試練を乗り越えました。それは今日の第2朗読でもよく記されています。彼らが頂いた祝福は朽ちてしまい、また、萎んでしまうはずのものではなく、永遠の神様がイエス様の死と復活を通して与えて下さったものなのです。それは神様の慈しみと憐れみによる救いで、その救いを味わった初代教会の人々は色々な試練のさなかでも、信仰を保つことができたのです。彼らも見ないのに信じる幸せな人々であって、私達も同じ信仰をもって同じ幸せさに与るべきだと思います。

 さて、子供の頃、私の母は「ミサの時、神父様がご聖体と杯を挙げたら、心の中で、〈私の主、私の神よ。〉と静かに唱えなさい。」と教えてくれました。その時にはそれがどんな意味かが分かりませんでしたが、今は少し分かります。それは今日の福音の中でのトマスの信仰告白でしょう。母の教えはご聖体と杯を見つめながら、純粋な心でイエス様が自分の主であり、神であると告白しなさいと言うことでした。今、私達に必要なのはそういう素直な心、純粋な信仰ではないかと思います。また、公開ミサが中止されている今、ご聖体との霊的な一致のための必要な内的な姿勢なのです。ノートルダム大聖堂の火事、新型コロナウイルスなどの試練は、ただの試練ではなく、神様に向かう信仰を新たにせよという招きとして受け止めることが大事なことです。私達が一筋の心をもって祈ると、神様は必ず、私達に慈しみと憐れみの御心を見せて下さると思います。そして、いつか、神様は私達を再び集めて下さり、皆が真の喜びを分かち合うことが出来るようにして下さると確信します。その時まで、私も毎日のミサの中で、信者の皆さんのためにお祈り致します。

カトリック二俣川教会主任司祭  ヤコブ姜 真求

 

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