姜真求神父 復活節第3主日の説教

 新しい年を迎えた途端、全世界は新たな希望どころか、今まで経験したこともない病気との戦いに巻き込まれています。多くの人々がこの病気で命を奪われて、その悲しみで覆われているし、まだ、病床で苦しんでいる人々も数切れないほどです。また、実態も分からないこの病気と闘っている医療従事者達は勿論、国民の日常の生活を支える為、休みたくても休めないという状況で働いている人も多い現状です。このような事態にあって、一人一人が周りの人々の為に自粛することは大変大事だと思います。また、皆が各々の立場で出来ることを果たすことこそが、互いの命を守ることになると信じて、互いを支え合おうとする姿勢を失わないようにすべきだと思います。

 さて、この新型ウイルスに関連した新しい言葉が、最近、私達の耳によく聞こえてきます。それは所謂「ソーシャルディスタンス」という言葉で、周りの人と適当な距離を置くという意味の言葉です。これはこの病気から自分と他人を守る為、また、感染のリスクを減らす為に必要な行動なのですが、ただ心配なのは、本来の意味から外れて、他人に対しての疑いや偏見、虐めにまで繋がることです。実際、多くの医療従事者や既にこの病気にかかっている人、またその家族に向かって、あり得ないことが起こっているそうです。しかし、そのことこそ、私達が今戦っているこの病気よりも怖い病気であることを、皆が悟るべきだと思います。それで、今日はそういう観点から、聖書のみ言葉を味わいたいと思います。

 今日の福音は、皆がよくご存じの「エマオで現れたイエス様」のことです。神学校4年生の時、初めてスータンを着る前の4日間の黙想会の中でこの福音を黙想しながら、私は本当に深い感動を覚えました。まるで、一編の映画を観るような感じです。クレオパと言う弟子ともう一人の弟子は、エルサレムから60スタディオン離れたエマオと言う所へ向かって歩いていました。彼らはイエス様の弟子でしたが、イエス様の死に遭遇して絶望し、また、イエス様の復活の事実を告げた婦人達の話も信じていなかったようです。そして、イエス様の弟子だという理由でユダヤ人から虐められ、または、捕らわれるかもしれないという不安に包まれていたようです。それで、彼らは自分達の故郷へ行こうとしていたという解釈もあります。今日の福音はそういう状況に当たって、エマオへ向かって足を運んでいた二人がイエス様に出会って、再び、イエス様の死の現場であったエルサレムに戻って、イエス様の復活の証人になったということを、私達に伝えています。

 二人は歩きながらずっとイエス様のことについて話し合っていました。そこにイエス様が現れて一緒に歩き始められたのですが、二人は全然気づかなかったようです。彼らはただ、後ろから誰かが歩いてきて、いつの間にか自分達と同行していると感じたかもしれません。そして、イエス様から「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」と質問されて、二人は自分達のそばに見慣れていない人がいることに初めて気が付いたのでしょう。ここで、イエス様の言葉を聞いた二人の様子をちょっと想像してみましょう。きっと、彼らは驚き、狼狽したと思います。彼らはまさに逃亡中で、二人のやりとりも声を潜めて囁くように話していたでしょう。つまり、彼らは自分達の正体を隠して、他人の目を避けていたということです。それで初めは、ただ暗い眼差しで互いの顔を眺めながら、イエス様の正体を探ろうとしていたかもしれません。そして、ようやく、クレオパと言う人が「あなたもエルサレムに滞在していたのに、この数日の間そこで何が起こったのか知らないですか。」と、まるで責めるような感じでイエス様に問いかけました。それで、イエス様にもう一度、それは何かと聞かれて、クレオパはイエス様とそこで起こった出来事について話し始めました。つまり、「自分達はイエス様が真の預言者だと信じたのに、民の指導者達によって殺された。でも、自分達の仲間の婦人達がイエス様は復活されたと告げた。それで、何人かが確認しようとしてイエス様の墓に行ってみたけれども、イエス様に会えなかった。」ということです。

 その話を耳にされたイエス様は「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者達の言ったこと全てを信じられない者達、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」とおっしゃいました。そして、「モーセと全ての預言者から始めて、聖書全体に渡り、ご自分について書かれていることを説明」して下さいました。また、彼らと一緒に泊まって、その食卓で「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。」すると、彼らは目が開け、イエス様だと分かりましたが、その姿は見えなくなりました。しかし、彼らはそのイエス様の姿から、最後の晩餐のことや、いつも自分達と共にして下さった方の愛を思い出すことができたでしょう。それで、自分達の頑なで愚かな様子に気づき、再び、仲間達がいるエルサレムに戻ってきて、復活されたイエス様のことを証ししたのです。

 信仰の生活はイエス様とのかかわりを味わうことだとも言えます。すなわち、「イエス様が自分に何をしてくださったのか、自分にとってイエス様はどんな方なのか」と顧みながら、そのイエス様がいつも共におられることを信じることが信仰ということです。しかし、時々私達の信仰は厳しい儀式や外見的な活動に止まっているのではないかという気がします。毎日の生活の中で共にして下さるイエス様は、私達をご自身のミサにまで導いて下さいます。そして、そのミサの中でご自身の愛をはっきりと現わされます。しかし、そのイエス様との間には、今、ソーシャルディスタンスだけではなく、スピリチュアルディスタンス、つまり、霊的な距離さえ置いているのではないかという気がします。私達が見ようとしなければ、例えイエス様が何度復活されても、見えるはずが無いでしょう。もしかすると、イエス様の愛から離れて、各自が自分なりのエマオに向かって歩いているかもしれません。それで、私達は今まで一体どこへ向かって歩いてきたのか、この悲しい復活節の間、考えてみるべきだと思います。

 併せて、今の苦しい状況の中で世界の多くの人々が不安な毎日を過ごしています。これはただ、ある国や地域だけの苦しみではありませんが、この苦痛のさなかでも、相手の国や地域、また、他人を責めようとする雰囲気があるのも事実です。ソーシャルディスタンスとはそういうものではありません。むしろ、今まで皆がどのように周りの人々とかかわってきたのか、また、繋がってきたのかを反省しなければなりません。このような状況になっても、反目と不信、冷淡と憎しみに拘ったら、私たちの未来は全く見えなくなってしまうかもしれません。最も弱い人や何の支えも求められない人の力になること、そして、互いに赦し合い、支え合い、愛し合いながら、神様の慈しみにより頼むことが、今は大切なことなのです。互いに距離を置けば置くほど、心の距離は近くすべきです。

神様が私たちのそういう様子を憐れんでくださって、今の危険から助けてくださいますように。アーメン。

カトリック二俣川教会主任司祭  ヤコブ姜 真求

 

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