信者の皆さんのお祈りと応援に力付けられて、ようやくクレジットカードが作れました。ありがとうございます。これからは年3回のお餅のもてなしの決済が直接にできます。また、クレジットカードの他に、ETCカードやDEBITカードも作れましたので、急にカード持ちになったような感じがありますが、どういう気持ちかと言えば、「着せられた濡れ衣を晴らした」ようです。言い換えれば犯罪人のように扱われてきたが、その疑いから解放されたという気持ちです。本当に嬉しくてこれからうまく使いたいと思います。ところが、わたしはそのカードを作る間、大変重要なことを学びました。それは所謂、ローンということに関することで、今までわたしが知っていた意味が、全く常識ではなかったということです。わたしが知っていたのは、ローンとは返さなければならない借金で、人生の重荷のようなものでしたが、カード会社から聞いたのは、それが自分の信用度と関係があることだとのことでした。例えばわたしがローンで車を買い、その代金を3年に渡って支払うことにしたら、それは車会社からお金を借りたのと同じことになり、そのお金を毎月着実に返すことによって、自分の信用度が証明されるということです。簡単に言えば、分割払いもお金を借りるローンに当たるということで、それを聞いた私はとても大きな悟りを得たような気がしました。とにかく、実際の現金を借りることであれ、分割払いであれ、借りたのはきちんと返すべきで、そうしないと、誰からも信用されない人となってしまうかもしれません。しかも、その誰という方が神様だったら大変困るはずです。
今日の福音で、イエス様は罪の赦しについて話されました。福音は、罪を犯したある兄弟を、7回まで赦さねばならないのかという質問から始まりますが、それに対してイエス様は7の70倍までも赦すことを教えられました。実は、聖書の数字としての7とは、完全性と完璧性を現します。つまり、罪びとを7回赦したというのは、それほど完璧に赦してあげたという意味で、それ以上は赦さなくてもいいという意味もあります。しかし、イエス様は7回の70倍までも赦しなさいと言われ、最後の最後まで赦さねばならないことをはっきりおっしゃった上で、ある例えを聞かせてくださいました。
その例えには二人の人が登場しますが、事実、彼らは仲間でした。そのうち一人は王に一万タラントンの借金をしていましたが、それが発覚し、王の前に連れて来られました。そこで王は彼に「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」と命じましたが、彼の切なる願いを聞き入れ、憐れに思って彼を赦し、更に、その借金も帳消しにしました。やっと王の前から立ち去ることが出来た彼は、今度は自分百デナリオンの借金をしていた仲間に出会いました。すると、彼はその仲間を「捕まえて、首を絞め、『借金を返せ』」と言いながら返済を強く求めました。それで、その仲間は彼に返済を約束しつつしきりに頼みましたが、彼は受け入れようとせず、その仲間を牢に入れました。ところが、その事実を知った他の仲間たちは皆、心を痛め、王にその次第を残らず告げました。それで、彼は再び王に呼びつけられ、前よりもっとひどい目に遭わされて、結局、一万タラントンの借金を返さねばならなくなったのです。最後に、イエス様はその例えの結論として、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」と言われ、互いに赦し合うことの大事さを教えてくださいました。
イエス様のこの御言葉を心に留めて味わったなら、人は自分の頂いた赦しを、他人に対する赦しを通して完成できるということが分かります。事実、私たちはイエス様の死によって、自分の罪を洗うことが出来ました。つまり、私たちは自分では、罪からも、その罪の結果である死からも自らを解放することが出来ませんでしたが、神様の慈しみとイエス様の十字架上の犠牲によって解放されたのです。しかし、そういう大きな恵みを受けたのに、時々、自分がイエス様によって贖われた者であることを忘れて、他人に対して厳しい態度を見せたり、或は、断罪したりする場合が多いです。そればかりか、時には、自分を少し傷つけた人や、気に入らない人たちまで罪びとと見なす場合もあります。それに対して、「私たちの中には」という言葉で始まる今日の第2朗読は、イエス様によって購われた「私たち教会の人たちは、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものである」ことを使徒パウロは明確にしました。つまり、教会はイエス様の死と復活によって主のものとなった人たちの集いなので、皆、イエス様を通して現れた神様の慈しみと憐れみと愛を、自分の生活の中で証しすべきであるということです。こうして、教会の人たちは愛に満ちた自分の生活を通して、神様の栄光を現わし、また、信仰の正しさを証明する人となるのです。なぜ、そのように生きるのかと問われたら、「神様が自分の大きな借金を帳消しにしてくださったからだ。」と答えられるでしょう。そういうわけで、今日の第1朗読では、特に憤りや怒りを警戒することを教えています。それらは人を裁いている徴で、人を裁けるのは神様だけですから、人が他人を裁いたら、それは自分が神として振る舞うことになってしまいます。しかし、それは自分が持っていた大きな借金を、さらに増やすことでしょう。そればかりか、せっかく赦された罪まで、ことごとく責められることになるのです。私たちはイエス様によって、自分の力では返すことができないほどの罪の赦しを頂いたのだから、互いに赦し合い、愛し合うべきです。
さて、新しいクレジットカードを手に入れたからといって、自由にお金を借りるつもりはありませんが、今回新たに悟ったローンというものの意味が、なかなか私の心から離れません。私たちは神様の愛と慈しみを、生きている間の大きな借金としていただきました。その借金を返すためには、とにかく、他人に対して寛大な心をもって生きるべきだと思うし、また、実際に赦しを実践することが大事だとも思います。一人のことを赦すことによって、自分の借金がどのぐらい返済されるのかは分かりませんが、確かなことは、私たちが誰かを赦したら、御父も私たちを赦してくださるということです。主の祈りの言葉ですが、「私たちの罪をお許しください。私たちも人を赦します。」という箇所があります。でも、これは前後が入れ替わった翻訳で、元々は逆なのです。「私たちは人を赦すので、私たちもお許しください。」ということです。神様の赦しにはある前提があります。それは、自分がまず、他人を赦すことです。神様からの大きな慈しみと愛を借金としてもらうだけで、それを忠実に返そうとはしない「不届きな家来」になったら、大変困るはずです。このミサの中で、私たち一人一人が愛と赦しの心を持つことができるように、心を込めて祈りましょう。
☆原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 2020年9月13日姜神父様のお説教
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☆彡新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り ⇒ COVID-19inoriB7
★9月からの主日ミサスケジュール ⇒ミサスケジュール(0905-1122)A