韓国では、お正月とお盆は陰暦に祝う為、もうすぐ秋夕(チュソック、中秋)と呼ばれるお盆を迎えます。毎年、この二つのお祝い日になると、ほとんどの国民はお墓参りに行きますが、特にお盆の場合、当日の2週間前にお墓をきれいにする慣習があります。その日、男性達は先祖のお墓に行って、一年間伸びた芝を刈り、雑草や雑木などを取り除きます。それに使われる道具はただ一本の鎌だけで、実は、その危ない道具がうまく使えなければ、その仕事はできません。私は中学校3年生の時、初めて鎌を手に入れて父からそのやり方を学び、それから高校3年生まで、毎年、父と一緒に3か所のお墓を訪れて、お盆のお墓参りの準備をしました。まだ夏の暑さが残っている季節、その丸一日を、二人はまるでシャワーを浴びたように汗にまみれてあちこちのお墓に参り、その仕事をしました。お墓は別々のところにあったので、山道を通らなければなりませんでした。その細い山道を二人で歩いて次の所へ向かう時、私は父の後について行きながら、いつも父の背中を見つめるようになりました。そして、次のお墓についたら、二人は一言も交わさず静かに芝刈りを始めました。今その時のことを顧みると懐かしい気持ちになりますが、一方、何か言葉では説明しがたい不思議な気持ちに耽(ふけ)ったりしています。それは、その細い道を通して、私自身が、既に父の人生の大事な時を共にしているかのような、或は、父の心を少し垣間見ているかのような気持ちです。そうです。その細い道の果てには父の大事な命の泉があり、私はその命の現場に招かれ、そこで父と共に働いていたのです。

今日の第1朗読で、エゼキエル預言者は「神様の道とイスラエルの民の道」に関する神様の御言葉を語っています。長い間、特に、王たちの時代の中で多くの罪を犯したイスラエルの民は、神様の道、つまり、信仰の道が自分たちを邪魔するものだと見なしていました。その信仰の道とは、神様が示してくださった道で、それは「正義と恵みの業を行う」ようにと教えている道なのです。言い換えれば、その道は神様の慈しみと憐れみと愛に基づいた道で、その道を歩んだら、不正や悪を行うわけがありません。しかし、イスラエルの民は自分たちを正しくない道に導いていた王たちや偽りの預言者たちにしたがって、神様の道から逸れる結果になってしまったのです。それで、神様の民と呼ばれた彼らの間に、様々な犯罪が行われ、その罪による恨みや妬み、嘆きや憎しみは深まっていて、もはや彼らは神の民ではなく、罪の民となっていました。彼らの目には、この世の中の道は広くて楽に見えましたが、神様の道は細くて暗い道のように見えたのです。神様は彼らのために多くの預言者を遣わされて、彼らを正しい道に導こうとされましたが、もうすでに罪に染まっていた民は神様の道に立ち返ろうとはしませんでした。今日も、神様はエゼキエルの口を通して、すべての人が悔い改めて、罪と悪の道から離れ、死ではなく命を得るようにと勧められたのです。神様は彼らの目に細くて暗い道のように見えた道、つまり、ご自分の慈しみと愛の道が、実は命に至る道であることを彼らが悟り、その道で新たに命を得ることを望んでおられたのです。

今日の福音で、イエス様は二人の息子を持っていたある父親のことを、例え話として聞かせてくださいました。父は二人がぶどう園で働くようにと声を掛けましたが、兄と弟の様子は全く異なりました。その父の指示に対して、兄の答えは「嫌」でしたが、後で彼は心を改めて働きに行きました。一方、弟は口では「はい」と答えましたが、実際には、行かなかったのです。イエス様はこの例え話を祭司長や民の長老たちに話して、最後に「この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか。」と問われました。それに対して、彼らは兄の方だと答えましたが、それを耳にされたイエス様は、この例え話の結論として、民の指導者であった人たちより、罪びとたちが神様の国に先に入れるとおっしゃいました。その理由としてイエス様が言われたのは、民を導くべき指導者たちが、徴税人や娼婦たちとは逆に、神様から遣わされた洗礼者ヨハネを信じなかったということでした。彼らはヨハネが示した義の道、つまり、神様の慈しみと憐れみと愛の道に立ち返らず、むしろ、罪びとたちが先にその神様の道に戻ってきたということです。

わたしは今日の福音を黙想しながら、次のことを考えてみました。それは、どうして指導者たちではなく、罪びとたちが兄に例えられたのかということです。事実、イエス様は罪びとを兄に、指導者たちを弟に例えられましたが、それはその父親のブドウ園を受け継ぐのは誰かということをはっきり示すためでした。普通、その権利は長男にあるはずですが、イエス様はこの話を通して、神様の意向に沿って生きる人こそが長男となることを明確にされたのです。それで、自分たちは神様の長男のような存在だと考えていた指導者たちは、実際には長男でなく、次男であり、しかも、彼らはいつも神様に背いていると言うことを、この例え話によって明らかにされたのです。また、イエス様はこの今日の福音を通して、誰も自分の道に拘らず、その道から離れて神様の道に立ち返るならば、神様の国を受け継ぐ長男となることをはっきり教えてくださいました。

それは、使徒パウロの今日の第2朗読にもよく記されています。パウロは教会の人たちに、愛と慈しみと憐れみの心を話しながら、皆が、同じ愛を抱き、また、心を合わせ、思いを一つにすることを勧めています。併せて、皆、利己心や虚栄心を捨てることと、へりくだること、また、互いに相手を自分よりも優れたものと考えること、自分だけではなく他人のことに注意を払うことについても言及しています。パウロにとって、それはイエス様に倣うことで、イエス様は神様と等しい方でありながらも、その全てを捨て、神様の僕となり、その謙遜な姿こそ、教会の人々の真の様子だと思っていました。イエス様もご自分のすべてを捨てたのに、教会の人々が、自分の考えややり方、経験や知識などの自分の道に拘ってはいけないでしょう。その道の果てには命ではなく、罪と死の影が待っているかもしれません。

さて、今日の福音の例え話ですが、きっと、兄はそのブドウ園に至る道で父親に出会ったと思います。父はそこで二人の息子を待っていたに違いありません。息子たちと共に働きたかったでしょう。教会への道にも、神様が私たちを待っておられ、神様は私たちと共にその道の果てであるこの教会で、また、日々の私たちの生活という、もうひとつの教会でも共に働きたいと思っておられます。その神様の御心を心に留めて、これからの私たちの働きによって、多くの人が命の道を見出すことができるように努力しましょう。わたしもこのミサの中で、そういう恵みをお祈りいたします。

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