来日してから今月で4年が経ち、私はようやく満4歳になりました。色々ありがたくて、神様にも、信者の皆さんにも、感謝しております。これからも頑張りたいと思います。さて、今日の福音を読みながら、来日してからおよそ1年間、日本語を勉強した時のことが頭によぎりました。高校時代に私が学校で学んだ外国語は、英語が第1外国語で、第2外国語は中国語でした。つまり、日本語とは縁がなかったということです。それから、時々、日本語との出会いの機会はありましたが、本格的には勉強したことも、勉強しようと思ったこともありませんでした。ですから、来日が決まった時、何か準備しなければならないという心の焦りが大きくなり、韓国で3か月間、ある大学生から日本語を学びました。そして、来日してから、最初は個人レッスンで日本語を勉強し、2017年4月からはYMCAで勉強を続けました。生まれて初めて接した日本語は、今も同じですが、とても難しかったので、わたしの心の中では「できる。」と「いや、できない。」という葛藤の毎日でした。幸いに、まだまだ十分ではありませんが、日本語が話せるようになっています。それも神様が許してくださった結果だと思っています。確かに、神様はわたしに新しいタラントンを与えてくださり、これからはそのタラントンで何とかやるようにと、私に求めておられる気がします。

今日の福音の例え話ですが、実は、読めば読むほど、いくつかの疑問が頭に浮かびます。まず、福音の内容は、ある家の主人が旅に出る前、3人の僕たちにそれぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けることから始まります。その中で5タラントンを預かった僕と2タラントンを預かった僕は、商売をして100%の利益を収めましたが、1タラントンを預かった僕はその金を土の中に埋めておきました。そして、かなりの日が経って帰って来た主人は、其の3人の僕たちと清算を始めましたが、それぞれの利益を収めた僕たちは主人に褒められ、また、もっと大きな仕事を任せられることになりました。しかし、1タラントンをそのまま返した僕は主人に怒られ、更に、その家での仕事まで失うことになったというのが、今日の例え話の全体的な内容です。では、なぜ、預けられたお金を忠実に守った僕だけが追い出されたのでしょうか。

ちょっと変な考えもしれませんが、最初、主人はその3人の僕たちに自分の財産を預けましたが、それを用いてもっと多くのお金を儲けるようにとは指示しませんでした。つまり、それらは、ただ僕たちに預けただけのお金でした。そう考えたら、5タラントン、また、2タラントンを預かった僕たちは、勝手に主人のお金を使ったことになるでしょう。幸いに、二人は成功しましたが、もしその投資が失敗していたら、主人は大きな財産を失ったに違いありません。それに比べたら、1タラントンを預かった僕は主人のお金を忠実に守って、主人に無事に返しました。彼は何も計らうことがなかったのですが、とにかく、その大事なお金を守ることが出来たでしょう。でも、主人は、先の二人に約束もしていなかった素晴らしい報いを与えましたが、その一人の賢明な僕からは、お金だけでなく、仕事まで奪いました。なぜでしょうか。

事実、この僕たちの主人は最初、自分の財産をそれぞれの力に応じて彼らに預けました。言い換えれば、主人は彼らの力を既に知っていたわけです。その力とは、彼らの能力とか才能ですが、主人は彼らが自らの力で、自分の財産をうまく管理できると思ったでしょう。それは主人の僕たちに向かう信頼で、僕たちもその信頼に応えて、主人の財産を扱うべきだったのです。つまり、主人からの明確な指示がなかったとしても、彼らはなんとかしてその主人の財産を使って、少しでも利益を収めるべきだったということです。それで、先の二人は多くのお金をもうけることができ、主人から誉められましたが、残念ながら、最後の一人は主人から退けられたのです。彼は主人が自分を信じていたことを疑い、更に、主人のやり方や人柄に対する考えも大きく間違えていました。彼が知っていた主人は、まるで、暴君、或いは、常識的ではない人で、自分が預かったお金についても強く責任を負わせるに違いないと思っていました。結局、彼は主人の信頼に背いて勝手に判断し、自分の怠惰だけを公にしてしまったのです。ということで、先の二人は主人と喜びを共にすることができましたが、この怠け者はすべてを失ったまま、主人の家から追い出されたのです。

イエス様の今日の例え話は、勿論、終末論的な話で、私たちが信仰のある人として、どのように過ごすべきかを語っています。私たちは神様の愛によってあがなわれて、教会の一員、つまり、神様の子供になって、神様からの様々な恵みをいただいて生きています。神様は私たちがその恵みをうまく生かして、教会の中では勿論、それぞれの生活の現場で、もっと多くの実を結ぶことを望んでおられます。つまり、私たちの日々の結んだ実によって、私たちは神様を喜ばせることができるということです。それは今日の第1朗読に語られている賢明な妻を持つ夫の喜びと同じことで、私はその賢明な妻とは教会を表すに違いないと思いますし、教会の一員である私たちが教会の夫であるイエス様の喜びとならなければならないとも思います。イエス様ご自身が愛の十字架によって神様の喜びとなられたように、私たちも神様からの恵みを愛の力によって生かさねばなりません。そうしないと、私たちは土の中で眠ってしまった1タラントンのように、今日の第2朗読に書いてある暗闇に属している人のようになってしまうはずです。その人たちはイエス様が示された愛の生き方や愛の務めではなく、世の中の生き方に従いながら「大丈夫だ。無事だ。安全だ。」と思っています。しかし、私たちはそうなってはいけません。むしろ、世の中のあらゆる状況に遭遇しても、絶え間なく祈り、また、神様の御心を注意深く調べ、それに従って働く愛の働き手としての使命を果たすべきです。そうすれば、神様は私たちにふさわしい報いを与えてくださるでしょう。

さて、神様に嫌がれる罪の中には「時間を無駄にする」という罪があるそうです。神様が与えてくださった恵みの中で最も素晴らしい恵みは私たちの命であると思います。その命を生きている間、私たちは数えきれないほどの時間を使っています。その時間を無駄にするのは自分の命を無駄にすることで、それは大変大きな罪に当たるでしょう。皆さんの毎日が、神様からの恵みを活かして、立派な実を結ぶ日々となることができるように、わたしもこのミサの中でお祈りいたします。

原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 2020年11月15日姜神父様のお説教

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