今日の第一朗読はかの有名な「エルサレム公会議」のことです。それは聖霊降臨によって誕生した教会の初めての公会議であり、一番主なテーマは「異邦人の信者たちの信仰生活」に関することでした。そのきっかけは今日の第一朗読にも書いてありますが、エルサレムから異邦人たちの共同体にやってきた何人かのユダヤ人たちの出来事でした。彼らは異邦人たちに、ユダヤ人のように割礼を受けなければならない、と厳しく訴えながら、その異邦人たちを脅かしたのです。それが問題となって全教会に大きな危機をもたらし、使徒たちはその危機を乗り越えねばなりませんでした。そこで、使徒たちや教会の長老たちが皆集まって、教会史上最初の公会議を開催し、いろいろ議論したうえで、異邦人たちにいくつかの規則だけを守らせることにしました。そして、その公会議の結論を聞いた異邦人たちは喜びながら、安心して信仰の道を歩み続けるようになったのです。
そもそもユダヤ人にとって、割礼は神様との契約のしるしであり、それを受けなければ神様の民となる資格もないと思っていました。それほど、彼らにとって割礼に関する律法は大切な事だったのです。でも、それは旧約の規則、つまり、神様と結んだ昔の契約のしるしで、イエス様の御体と御血による新しい契約の民にとっては、その規則はもはや意味のないものでした。しかも、イエス様の御名によって洗礼を受けた異邦人たちに、同じ聖霊が下った以上、他のしるしはもう要らなくなったわけです。その聖霊の授与によって、異邦人とユダヤ人との壁は無くなり、みんなが神様のただ一つの民、神様の平等な子供となったはずです。それなのに、エルサレムからやってきて大騒ぎを起こしたそのユダヤ人たちは、依然として、自分たちが偉い人、優れた人のように振る舞いながら、異邦人たちを無視したり、差別したり、虐めたりし、更に、蔑んだのです。それは何と情けなくて頑なな心でしょう。衝撃的なことに、その大騒ぎを起こしたユダヤ人たちも、洗礼を受けた教会の一員だったということです。一体、彼らが受けた洗礼は何の意味があったのでしょうか。それは、むしろ、イエス様を無視し、軽んじることに違いないことだったのです。そこで、初期教会の使徒たちと長老たちは、それらの偽りや偽善、偏見や悪意的ないじめ、頑なな心などと戦わねばなりませんでした。そして、聖霊に導かれて最初の公会議を開き、愛の聖霊から愛の力と愛の知恵、愛の勇気をいただき、それらの悪と戦って打ち勝ちました。その結果、教会は喜びと平和を取り戻し、みんながイエス様の一つの体、一つの心となって、愛の共同体を守ることができたのです。今日の第一朗読が語っている出来事についての話は長くなりましたが、はたしてこの出来事はわたしたちに何を示しているのでしょうか。
それは教会の真の姿を示すとともに、その姿を守るための戦いを、今の時代の教会も果たさなければならないことを表わすためだと思います。実に、教会は常にそれらの悪に曝されているし、それらの悪はいつも教会の中で自分の正体を隠して、いつでも教会を崩そうとしています。それはわたしたち二俣川の教会も例外ではありません。人間同士が集まった所の中で、偽りや偽善、偏見や差別、非難や蔑み、悪意的で執拗ないじめ、高圧的な姿勢などがない所はどこもないと思いますが、それらが教会で見つかるのは何と悲しいことでしょう。認めたくありませんが、残念なことに、わたしは度々そういうことを見つけており、そのたびごとにとても深い悲しみと絶望に陥ったりします。ただの一司祭である私がそれほど悲しくなるのだから、慈しみ深い神様は言うまでもないでしょう。今日の福音でイエス様は、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と言われ、更に、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」とおっしゃいました。この平和の授与の御言葉はミサの中で聖体をいただく前、司祭によって唱えられている御言葉なのです。わたしたちはそれを聞いたのち、アーメンと答え、それから「主の平和」と言いながら、互いに平和のあいさつを交わすことになります。ところが、わたしたちが互いに交し合う平和は本当に「主の平和」なのでしょうか。それとも、世の中で学んだ「自分だけの平和」なのでしょうか。
イエス様が与えてくださる平和は、洗礼の時頂いた聖霊を通して授けられるものです。その聖霊は、今日の福音でイエス様がおっしゃったとおり、イエス様が話されたすべてのことを教え、また、ことごとく思い起こさせてくださいます。そのイエス様が話されたすべてのことを、一言でまとめたら、先週の主日の説教で申しましたが、それは「愛」であり、わたしたちはイエス様から愛と愛に基づいた生き方を学んだわけです。その愛に基づいた生き方とは、例えば赦し合い、理解し合い、支え合い、助け合い、受け入れ合い、信頼し合うことなどです。これらが、今日の福音の中でイエス様が言われた「愛を守る人たち」の真の姿で、天の御父とイエス様はその人たちのところに来られ、彼らと一緒に住んでくださるのです。そうなると、今日の第二朗読が語っているとおり、その愛を守る人たちの共同体こそが、「全能者である神様、主と小羊」が自ら神殿となり、自ら消えることのない明かりとなってくださる「新しい永遠の都」となるでしょう。そのような教会共同体に生き、神様に仕える信者たちはなんと幸せでしょう。わたしたちはそういう共同体を目指さねばなりません。愛の小羊であるイエス・キリストの平和を守るために、わたしたちの中にある様々な悪の種や根っこを取り除きながら、一人一人が愛の聖霊に従って、かなりの注意を払いながら振る舞い、また、それらの悪を行う人々が足を踏み入れることがないようにすることが大事だと思います。わたしたちが愛深い共同体として、この信仰の道を歩み続けることができるようお祈り致します。
今日の第一朗読はかの有名な「エルサレム公会議」のことです。それは聖霊降臨によって誕生した教会の初めての公会議であり、一番主なテーマは「異邦人の信者たちの信仰生活」に関することでした。そのきっかけは今日の第一朗読にも書いてありますが、エルサレムから異邦人たちの共同体にやってきた何人かのユダヤ人たちの出来事でした。彼らは異邦人たちに、ユダヤ人のように割礼を受けなければならない、と厳しく訴えながら、その異邦人たちを脅かしたのです。それが問題となって全教会に大きな危機をもたらし、使徒たちはその危機を乗り越えねばなりませんでした。そこで、使徒たちや教会の長老たちが皆集まって、教会史上最初の公会議を開催し、いろいろ議論したうえで、異邦人たちにいくつかの規則だけを守らせることにしました。そして、その公会議の結論を聞いた異邦人たちは喜びながら、安心して信仰の道を歩み続けるようになったのです。
そもそもユダヤ人にとって、割礼は神様との契約のしるしであり、それを受けなければ神様の民となる資格もないと思っていました。それほど、彼らにとって割礼に関する律法は大切な事だったのです。でも、それは旧約の規則、つまり、神様と結んだ昔の契約のしるしで、イエス様の御体と御血による新しい契約の民にとっては、その規則はもはや意味のないものでした。しかも、イエス様の御名によって洗礼を受けた異邦人たちに、同じ聖霊が下った以上、他のしるしはもう要らなくなったわけです。その聖霊の授与によって、異邦人とユダヤ人との壁は無くなり、みんなが神様のただ一つの民、神様の平等な子供となったはずです。それなのに、エルサレムからやってきて大騒ぎを起こしたそのユダヤ人たちは、依然として、自分たちが偉い人、優れた人のように振る舞いながら、異邦人たちを無視したり、差別したり、虐めたりし、更に、蔑んだのです。それは何と情けなくて頑なな心でしょう。衝撃的なことに、その大騒ぎを起こしたユダヤ人たちも、洗礼を受けた教会の一員だったということです。一体、彼らが受けた洗礼は何の意味があったのでしょうか。それは、むしろ、イエス様を無視し、軽んじることに違いないことだったのです。そこで、初期教会の使徒たちと長老たちは、それらの偽りや偽善、偏見や悪意的ないじめ、頑なな心などと戦わねばなりませんでした。そして、聖霊に導かれて最初の公会議を開き、愛の聖霊から愛の力と愛の知恵、愛の勇気をいただき、それらの悪と戦って打ち勝ちました。その結果、教会は喜びと平和を取り戻し、みんながイエス様の一つの体、一つの心となって、愛の共同体を守ることができたのです。今日の第一朗読が語っている出来事についての話は長くなりましたが、はたしてこの出来事はわたしたちに何を示しているのでしょうか。
それは教会の真の姿を示すとともに、その姿を守るための戦いを、今の時代の教会も果たさなければならないことを表わすためだと思います。実に、教会は常にそれらの悪に曝されているし、それらの悪はいつも教会の中で自分の正体を隠して、いつでも教会を崩そうとしています。それはわたしたち二俣川の教会も例外ではありません。人間同士が集まった所の中で、偽りや偽善、偏見や差別、非難や蔑み、悪意的で執拗ないじめ、高圧的な姿勢などがない所はどこもないと思いますが、それらが教会で見つかるのは何と悲しいことでしょう。認めたくありませんが、残念なことに、わたしは度々そういうことを見つけており、そのたびごとにとても深い悲しみと絶望に陥ったりします。ただの一司祭である私がそれほど悲しくなるのだから、慈しみ深い神様は言うまでもないでしょう。今日の福音でイエス様は、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と言われ、更に、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」とおっしゃいました。この平和の授与の御言葉はミサの中で聖体をいただく前、司祭によって唱えられている御言葉なのです。わたしたちはそれを聞いたのち、アーメンと答え、それから「主の平和」と言いながら、互いに平和のあいさつを交わすことになります。ところが、わたしたちが互いに交し合う平和は本当に「主の平和」なのでしょうか。それとも、世の中で学んだ「自分だけの平和」なのでしょうか。
イエス様が与えてくださる平和は、洗礼の時頂いた聖霊を通して授けられるものです。その聖霊は、今日の福音でイエス様がおっしゃったとおり、イエス様が話されたすべてのことを教え、また、ことごとく思い起こさせてくださいます。そのイエス様が話されたすべてのことを、一言でまとめたら、先週の主日の説教で申しましたが、それは「愛」であり、わたしたちはイエス様から愛と愛に基づいた生き方を学んだわけです。その愛に基づいた生き方とは、例えば赦し合い、理解し合い、支え合い、助け合い、受け入れ合い、信頼し合うことなどです。これらが、今日の福音の中でイエス様が言われた「愛を守る人たち」の真の姿で、天の御父とイエス様はその人たちのところに来られ、彼らと一緒に住んでくださるのです。そうなると、今日の第二朗読が語っているとおり、その愛を守る人たちの共同体こそが、「全能者である神様、主と小羊」が自ら神殿となり、自ら消えることのない明かりとなってくださる「新しい永遠の都」となるでしょう。そのような教会共同体に生き、神様に仕える信者たちはなんと幸せでしょう。わたしたちはそういう共同体を目指さねばなりません。愛の小羊であるイエス・キリストの平和を守るために、わたしたちの中にある様々な悪の種や根っこを取り除きながら、一人一人が愛の聖霊に従って、かなりの注意を払いながら振る舞い、また、それらの悪を行う人々が足を踏み入れることがないようにすることが大事だと思います。わたしたちが愛深い共同体として、この信仰の道を歩み続けることができるようお祈り致します。