今日の福音は、イエス様が祈っておられたことから始まります。そして、イエス様が祈りを終えた後、一人の弟子がイエス様に祈りを教えてくださるようにと願いました。そこで、イエス様は弟子たちに「主の祈り」を教えてくださり、さらに、祈るときの心の姿勢についても教えてくださいました。その心の姿勢は、「忍耐」と「信頼」とにまとめられます。イエス様はこの二つのことをそれぞれ、「真夜中に友達の家に行って、旅をしている他の友達のためのパンを求める人」と、「自分の子供にわざと悪いものを与える父親は誰もいない。」という例えをもって教えられました。

考えてみたら、真夜中に友達にパンを求める人は、ただ友達だからという理由だけでは、それを貰えないかもしれませんが、執拗に願うならば、相手はあきれてそれを与えてくれるはずでしょう。同じく、神様に祈るときには、忍耐心を持って切に祈ることが大事です。それについては、今日の第一朗読にもよく示されていますが、アブラハムはソドムとゴモラを滅ぼそうとしておられる神様と大胆なやり取りをしました。アブラハムはソドムとゴモラにいるかもしれない五十人の義人たちに言及しながら、彼らのためにも滅ぼさないでほしいと願ったのです。神様はそれを聴き入れられましたが、それから始まったやり取りの結果、アブラハムはその人数を十人にまで減らすことができたのです。勿論、結果的にソドムとゴモラは神様の怒りを避けられず滅ぼされましたが、このやり取りから、わたしたちは忍耐心を持って切に祈ることの大事さが分かります。その忍耐心と共に、神様に信頼することも大切なことです。イエス様は「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と言われました。人間がそうだとすれば、神様は言うまでもないということでしょう。しかも、神様はご自分の子供たちに一番良いものとして、聖霊を与えてくださる方です。今日の第二朗読にも書いてありますが、わたしたちは洗礼によってイエス様と共に葬られ、イエス様と共に復活させられた人なのです。神様はその事実を証明なさるために、わたしたちに聖霊を授けてくださったわけです。言い換えれば、聖霊は神様ご自身が自らを、信頼できる存在であることを証しするために送られた方なのです。ですから、わたしたちはその神様の慈しみと愛を信じ、絶えず祈りながら、自分の願い通りになることより、神様のみ旨に従って生きることを願うべきです。

こうしてイエス様は、祈るときの心の姿勢についておっしゃいましたが、その前に「主の祈り」を教えてくださいました。主の祈りは祈りの手本のようなもので、わたしたちは主の祈りから、何を祈るべきかが分かります。それは先ず、「神様の御名が崇められること」と、「御国が来ること」なのですが、どちらも神様ご自身がなさることのように聞こえます。勿論、その通りなのですが、ある意味では、「わたしたちが神様の御名を崇め、その御国の到来のために働けますように」と、願うことでもあると思います。どうすれば、それを成すことができるでしょうか。それは先ず、「すべてのいのちを大事にすること」だと思います。なぜなら、神様の御名は神様ご自身がかつてモーセに明言された、「わたしはある。」であるからです。すなわち、神様はすべてのものの創造主であり、いのちあるすべてのものにいのちを授ける方であるので、わたしたちがいのちを大事にし、それを守るために働くことによって、神様の御名は崇められるということです。また、神様の御国の到来のために、わたしたちは世の中のあらゆる罪や悪と戦わねばなりません。この二つのことはどちらが欠けてもいけないことで、例えば、いのちを大事にしながらあらゆる罪や悪から目をそらすのも、逆に、すべての罪や悪と戦いながらいのちを軽んずるのも、それ自体が悪だからです。

このように、「神様の御名を崇め、その御国の到来のために働く」のはわたしたちの務めでもあり、それを果たすために主の祈りの後半は、毎日の糧を願うことから始まるわけです。でも、その糧とは、ただ体の健康を支えてくれる食べ物の意味だけではありません。実にわたしたちには最も大切な糧があり、わたしたちは今日もその糧をいただくために、この聖堂に集まっているのです。それは言うまでもなく、イエス様の御体でしょう。その糧を相応しくいただくため、ときには赦しの秘跡を行い、或いは、自分の過ちや罪を心深く悔い改めて、神様からの赦しの恵みをいただくのです。しかし、その恵みをいただくためにはある大事な前提があります。それはわたしたちが互いに赦し合うことです。それは主の祈りにも書いてある通り、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」ということです。そして、主の祈りの最後に、わたしたちを誘惑に遭わせないことを願いつつ、神様の子供としての気品を失うことなく、いつも清い者として生きていくことができるようにと祈るのです。

さて、今日イエス様に祈りを教えてくださいと願ったあの弟子は、きっとヨハネが自分の弟子たちに祈りを教えたことを知っていたでしょう。そして彼は、イエス様が祈っておられる間、その姿をじっと見つめていたに違いありません。彼にとってヨハネの弟子たちや、祈っておられるイエス様がどれほど羨ましかったでしょう。周りの人たちに祈っている自分の姿を見せるのは、恥ずかしいことでも、偉い人のように見なされることでもありません。むしろ、それは信仰のある人たちの当たり前の姿であり、その姿と祈りによって、みんなが共に成長することとなります。特に家庭で、子供たちに祈る親の姿を見せるのは、神様からの恵みをもっと豊かにいただけることでもあります。これから、わたしたちの共同体が祈りを通して神様ともっと親しくなれるよう、お祈りいたします。

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