今日は復活されたイエス様の昇天を記念する「主の昇天」の祭日です。イエス様は復活された後、40日の間、弟子たちにご自分を現わされ、復活と永遠の命についての彼らの信仰を強めてくださいました。そして、弟子たちに聖霊を約束されましたが、それは彼らをご自分の証人とするためのことでしょう。つまり、弟子たちは間もなく聖霊に力付けられて、「イエス様こそが真の救い主である」ことを、至る所で宣べ伝える使徒となるということです。それについては今日の福音にも書いてありますが、イエス様は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と、彼らの使命を明らかにされたのです。そして、イエス様は弟子たちの目の前で天に昇られました。それからしばらくの間、彼らはただその聖霊を待つしかありませんでしたが、弟子たちはどれほど大きな不安と心配、また、疑いに覆われていたことでしょうか。
ところが、イエス様は弟子たちにエルサレムを離れず、そこで聖霊を待っているようにと命じられました。弟子たちにとって、そのエルサレムは恐ろしい所、逃げ出したい場所だったに違いありません。なぜなら、その都でイエス様は殺され、自分たちの命も脅されていたからです。でも、イエス様はご自分を殺し、その殺害に賛成したエルサレムの人たちが先ず、悔い改めて福音を信じ、神様の救いに与ることを望まれました。それは、誰よりも彼ら自身が、イエス様の死と復活の直接的な証人だったからでしょう。そのエルサレムから、救いの福音が弟子たちを通して、地の果てに至るまで宣べ伝えられるのを望まれたイエス様は、弟子たちにその都で聖霊を待つようにと命じられたのです。それは、彼らが自分たちの知識や力ではなく、聖霊によって働くことを望まれたからです。それを考えたら、聖霊が降(くだ)るまで、彼らがエルサレムで過ごした期間は、ある意味、「イエス様の約束に希望をかけるのを学ぶ期間、聖霊をいただくための準備の期間、その聖霊によって使徒となるための準備の期間」となったはずです。その時、彼らは色々な不安や心配の中にあっても、神様がイエス様を通して与えてくださった救いの御業、つまり、イエス様の死と復活と昇天を思い起こしながら、互いに励まし合い、また、神様が聖霊を通して自分たちの信仰と希望と愛とを強めてくださるよう、祈っていたに違いありません。
今日の第二朗読で使徒パウロは、エフェソの教会の人たちを励ましました。実に、使徒たちは聖霊に導かれて力強くイエス様のことや福音を証ししましたが、すべての人たちから歓迎されていたわけではありません。勿論、聖霊によって多くの人がイエス様を信じ、神様の新しい民である教会の信者となりました。しかし、ある人たちは信じないどころか、使徒たちや教会を迫害したり、蔑んだり、殺そうとしたりしたのです。そんな状況の中で、使徒パウロは今日の第二朗読で、神様が「ご自分の力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれた」と語っています。そして、神様がキリスト・イエス様を教会の頭とし、また、教会をキリストの体とされ、その教会をご自分のおられる場としてくださったことを明らかに宣べています。パウロは、それほど偉大な方である神様が、教会の人たちに知恵と啓示の霊を与え、彼らの心の目を開いてくださり、更に、神様のお招きによる希望と、その約束の賜物の素晴らしさ、そして、信じる人々の中で働いている神様の偉大な力を悟らせてくださるように祈りました。でも、それは単なる祈りだけでなく、教会の人たちがその神様に信仰と希望と愛とを置いて、信仰の道を歩み抜きなさいと言う勧誘でもあります。そしてこれは、今の時代のわたしたちに向けた勧めでもあるのです。
ではこの勧めを、わたしたちはどのように受け止めるべきでしょうか。今日イエス様は弟子たちに、「すべての人をご自分の弟子とし、彼らに父と子と聖霊の名による洗礼を授け、また、弟子たちに命じられたことをその人たちも守るように。」と教えることを指示されました。その指示通りに生きるために、弟子たちは自分たちが先ず、イエス様の真の弟子となり、聖霊に導かれ、また、イエス様の命令、特に愛の掟を守り、最後の晩さんの記念であるミサを大切にしたのです。その弟子たちと同じく、イエス様の教えと福音を学び、宣べ伝えることや、このミサを大切にすることは、教会の規則でなく、イエス様からいただいた使命です。そして、互いに愛し合うこと、あらゆる形で愛を行うことも、わたしたちに授けられている使命でしょう。理解し合い、信頼し合い、赦し合い、支え合い、助け合うこと、共同体の平和のために務めることなどによって、わたしたちはイエス様の真の弟子となれるのです。この世の中で生きながらも、イエス様のおられる天の国に希望を置き、力強くこの信仰の道を歩んでまいりましょう。