司祭になりたいと思い始めてから、わたしの生活は教会を中心としたものとなりました。以前は教会に行くことも嫌でしたが、それが一変し、ほぼ毎日ミサに与りながら、教会学校や侍者活動、そして、中高生のレジオマリエの会員として活動をしました。「人はこれほど突然に変わるものなのか」と、わたし自身が驚くほどでした。振り返ってみると、神様はそれほど強くわたしを捕まえなければ、わたしがすぐに逃げてしまうことを知っておられたのではないかという気がします。その召命以来、イエス様はわたしの人生の真ん中に入られた、と言っても過言ではありません。勿論、司祭になってからも、司祭としての道をまじめに真っ直ぐに歩んできたとは言えませんが、時間が経てば経つほど、イエス様だけに従わなければ自分は何もできないことを認めるようになり、それを忘れずに生きていきたいと思います。
今日の福音で、イエス様はシモンとアンデレ、そして、ヤコブとヨハネを呼ばれました。その召し出しは、洗礼者ヨハネが捕らえられた後のことでしたが、ヨハネの逮捕は当時の民衆にとって、大変絶望的な事件だったでしょう。民衆は洗礼者ヨハネがメシアだと思い、神様がそのヨハネを通して、権力者たちの圧政から自分たちを救ってくださると信じていたからです。しかし、そのヨハネが捕らえられ、人々は絶望のあまりに皆、自分の日常の生活に戻るしかなかったはずです。今日のイエス様の召し出しは、そんな状況の中でのことでした。
その時、四人の漁師たちは何をしていたでしょうか。彼らはそれぞれ、自分たちの舟に乗って、湖で網を打ったり、自分の父親や雇人たちと一緒に、網の手入れをしたりしていました。見た目にはとても穏やかで平和な風景ですが、彼らの心はどうだったでしょうか。絶望と挫折、恨みと憎しみ、悩みと苦しみに満ちていたに違いありません。そんな彼らにイエス様の、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という声が聞こえるはずがありません。でも、イエス様は彼らに声をかけてくださいました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と。何と優しい言葉でしょう。彼らはすぐに、船も網も、父親も仲間の雇人たちも全部捨てて、イエス様に従い始めたのです。
イエス様は、「あなたがたのすべてを捨てなさい。」とは仰いませんでした。彼らは自ら進んで自分たちのすべてを捨てたのです。それこそが、彼らの悔い改めのしるしだったでしょう。そして、イエス様に自分自身を素直に任せて、イエス様と共に福音の道を歩み始めたのです。その福音の道とは、互いに愛し合う道でしょう。彼らは、その愛の掟を自分のいのちのように大事にし、その掟によって治められる神様の国のしるしである「教会の礎」となったわけです。まさに、ここにこそ、教会の人であるわたしたちの生き方が示されているのではないでしょうか。それは、自分のすべてを捨ててイエス様に従うことであり、自分の思い、言葉、行いをイエス様のようにすることでしょう。それこそが、わたしたちの悔い改めのしるしであり、信仰の証しであるのは言うまでもありません。
さて、四人の漁師たちに声をかける前、イエス様は湖のほとりを歩いておられました。その湖は彼らの生活の現場でした。そこで、彼らは一生懸命に働いていたでしょう。でも、ある意味、彼らは自分たちの網に掛かった魚のような身の上だったとも思われます。その時まで、イエス様は彼らの生活の現場あたりにおられたでしょう。しかし、イエス様に見つめられたあの日以来、イエス様は彼らの人生あたりにではなく、真ん中に入ってこられ、彼らを導いてくださいました。そして、彼らを通して人間を漁(すなど)る漁を始められたのです。わたしたちもそうではありませんか。イエス様を各々の人生の真ん中に迎え入れて、イエス様に従う幸せな信仰者、また、イエス様と共に人間をとる漁師となることができますように。アーメン。