今日の福音でイエス様は、とても厳しいことを語られました。要するに、「自分の体の一部が自分をつまずかせるなら、それを切り捨てないと神様の国には入れない」ということだったでしょう。この御言葉を考えながら、わたしは、「自分はどうなるか分からないが、もし自分が神様の国に入れるとしたら、多分、満身創痍とならなければ、決して入れない」と思いました。そして同時に、「果たして、体や心がそのようにめちゃくちゃになっても、それでも天国には入る価値があるのだろうか」とも考えました。勿論、そうでしょう。

現存するヴァイオリンの中で一番高いものは、いくらぐらいのものでしょう。それは、メシアと呼ばれるストラディバリウスで、20億円以上だそうです。イギリスのある博物館にあるそうですが、あまりにも高級で貴重なものだから、実際に演奏されることはめったにないようです。ある意味、残念で悲しいことでしょう。ヴァイオリンだけでなく、すべての楽器は演奏者によってその音が響かなければ、意味がないと思います。いかに素晴らしいものだとしても、必要なところで正しく使われなければ、何の意味もないでしょう。人間も同じだと思います。

よく考えてみると、神様が創ってくださったものはすべてすばらしいです。それは、神様の愛の作品ですが、その愛の作品の中でも一番の傑作は、言うまでもなく人間だと思います。神様はいつもご自分のすべての作品を祝福し、また、人間には特別な愛と恵みを注いでくださいます。それは、人間を通して、すべてのものが神様のみ旨に適うものとなるためでしょう。でも、人間は神様のその豊かな愛と恵みを忘れて、神様のみ旨ではなく、自分の思いや欲心を満足させるために生きているような気がします。

そういう生き方こそが、自分をつまずかせることには、あまり気づかないようです。自分の事だけを考えても、毎朝、目を覚ますと、もう罪の一日の始まりでしょう。このままだったら、今日の福音が語っているように、自分は天国に入れるとしても、もう満身創痍となっているに違いないでしょう。確かに、福音はとても厳しく恐ろしいですが、一方、優しい面もあります。イエス様は憤慨していたに違いないヨハネに、「やめさせてはならない。… わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」とおっしゃいました。優しいでしょう。

神様はイエス様が人となる際、特別な能力と恵みを授けられました。それは、すべての人の救いのための受難と死に向き合う愛、神様のみ旨だけに従う心だったのです。その愛と従順の果てに、イエス様は十字架上で体も心も満身創痍となって亡くなられました。でも、復活されたイエス様は新しい姿だったに違いありません。ここに、めちゃくちゃになっても、神様の国に入るように努める価値があるわけです。イエス様は、わたしたちが同じ愛と従順によって様々な誘惑につまずかず、それらの誘惑と向き合えるよう力づけてくださいます。神様に逆らわず、自分より神様のみ旨に適う生き方に沿って生き、神様が自分をお使いになるようにする、そのような生き方をイエス様は示してくださいました。そして、つまずいても落胆せず、悔い改めてイエス様の生き方に立ち帰るなら、神様の国で新しい体と心を頂くことができるのです。

神様は独り子を惜しまずに与えてくださいました。わたしたちも神様に物惜しみをせず、ささげましょう。イエス様は今日もご聖体の姿で、わたしたちに与えられます。神様がイエス様の御体を通してわたしたちを使ってくださり、み旨に適う人となれるよう、お祈りいたします。