聖金曜日 

  今⽇はイエス様が亡くなられた聖⾦曜⽇です。イエス様は聖⽊曜⽇の夜、最後の晩餐を⾏ってから、弟⼦たちと⼀緒にキドロンの⾕にある園に⾏かれました。その園は弟⼦の⼀⼈であったイスカリオテのユダも知っているところで、ユダはすでにイエス様をユダヤ⼈の指導者たちに渡そうとしていました。ユダヤ⼈たちの指導者たちは⼀隊の兵⼠たちをユダと⼀緒に送り、その園でイエス様を捕らえさせたのです。それからイエス様は⼤祭司たちの尋問をお受けになり、⾦曜⽇の朝、ピラトのもとまで引き引っ張られたのです。ピラトはイエス様を釈放しようとしましたが、ユダヤ⼈たちの反発に負けられてイエス様を⼗字架に付けることにしてしまい
ました。時間的なことを考えてみたら、イエス様は12時頃に⼗字架に付けられ、午後3時ごろに息を引き取られたと⾔われます。それで、伝統的に全世界の教会は今⽇の午後3時に「⼗字架の道⾏き」を捧げます。それはイエス様が亡くなられた時間で、私達は⼗字架の道を歩みながら、イエス様の苦しみに与るのです。

 それから適当な時間をおいて聖⾦曜⽇の祭儀を⾏いますが、厳密な意味でその儀式はミサではありません。先ず、司祭は沈黙の中で⼊堂して、祭壇の前でひれ伏して、或は、跪いて祈ります。そして、祭壇に上って集会の祈りを捧げます。それから、第⼀、第⼆朗読の後、福⾳を読みますが、その福⾳は「ヨハネによる受難記」とも⾔われます。司祭はそれを枝の主⽇のように何⼈かの信者さんたちとともに読みます。そして、簡単な説教の後、全世界の教会や教皇、教役者と信者の皆さん、洗礼志願者、キリスト者の⼀致、ユダヤ教の⼈々、キリストを信じない⼈々、神様を信じない⼈々、政治に携わっている⼈々、また、苦しんでいる⼈々の為の祈りを捧げます。まさに、それは全世界と全⼈類の為の祈りなのです。その祈りの後、司祭は紫の布で覆われた⼗字架を⼿にもって、聖堂の後ろから⼊堂し、決められた場所に来ると「⼗字架の賛歌」を⼆度歌います。その時、司祭は少しずつ紫の布を外して、⼗字架に釘付けられたイエス様の姿を信者の皆さんに⾒せます。そして祭壇に到着すると、三度⽬の賛歌を歌って、紫の布を完全に外し、その⼗字架を祭壇の前に置いておいて礼拝します。併せて、信者さん達も⾏列して祭壇の前まで進み出て、イエス様の⼗字架に向かって礼拝します。その礼拝が終わると、司祭は仮祭壇からご聖体を運んできて、信者の皆さんにご聖体を授けます。その後、司祭は普段のミサの祝福ではなく、「⺠の為の祈り」を捧げます。それはイエス様が亡くなられたことにより、イエス様が制定されたミサではないので、ただ、神様からの祝福を願う為に祈るということです。こうして、教会はミサではない聖⾦曜⽇の祭儀を⾏いますが、その祭儀はイエス様の受難と死に集中されています。そして、それに参加する信者の皆さんは、イエス様がなぜ⼗字架の死を味わわねばならなかったのかを黙想しつつ、⾃分達がどれほど弱い⼈間なのか、また、どれほど罪に傾きやすい者なのかを顧みるようになります。併せて、イエス様の愛にもっと深く⼀致して⽣きること、復活と永遠の命に向かう希望、または、愛の⽣活の⼤事さを悟るように招かれるのです。
さて、皆さんもご存知だと思いますが、ピラトの裁判で、イエス様の代わりに釈放された⼈がいました。彼はバラバと⾔われた⼈です。今⽇の受難の福⾳はヨハネによる福⾳で、そこにはバラバについて、ただの強盗であったと書かれていますが、マタイによる福⾳には次のように、もっと詳しいことが書かれています。「ところで、祭りの度ごとに、総督は⺠衆の希望する囚⼈を⼀⼈釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚⼈がいた。ピラトは⼈々が集まってきたとき⾔った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。』」と。つまり、バラバもイエス様も、元々は同じ「イエス」という名前を持っていたということです。解釈によってちょっと違う意⾒がありますが、「バラバ」とはその⼈のニックネームで、意味は「神様の⼦」と⾔われます。⾔い換えれば、ピラトは「神様の⼦と⾔われるイエスか。メシアと⾔われるイエスか。」と群衆に問いかけましが、群衆は「バラバを。」と答え、更に、イエス様については「⼗字架に付けろ。」と強く要求したのです。それは祭司⻑たちの説得による答えでしたが、群衆は彼らの説得に⽿を傾けてしまったのでしょう。

 イエス様は神様の真の⼦であり、真のメシアでしたが、⼈間の罪を取り除くための神様の⼩⽺として⼗字架に付けられました。⼈間としてのイエス様の⼈⽣は、いつも、神様に従うことだけでした。イエス様は常に神様に⽿を傾け、また、神様の意向に沿って⽣活されたのです。愚かな群衆も、彼らの指導者たちも、イエス様のその様⼦をよく知っていたでしょう。しかし、神様に従うのは律法を⽂字のままに守ることで⼗分だと思い、それより最も⼤事な「真の信仰と隣⼈愛」は軽く扱っていたのです。真⼼をもって神様に従うこと、隣⼈を⾃分のように愛することが彼らにとっては、⼗字架より重いものだったかもしれません。むしろ、彼らにとってもっと重要なことは、⾃分たちの欲⼼をかなえること、⾃分たちの⽴場や意⾒、やり⽅などを失わないことだったのではないかと思います。そうしたら、神様ではなく世のささやきに⽿を傾けるようになることは当然なことでしょう。でも、それはただ、2千年前のユダヤ⼈たちのことだけではありません。今の時代の私たちも、いつでも、⾊々なニックネームの救い主に従い、それを守ろうとする誘惑に陥る可能性を持っています。

 最後のことですが、主の受難に関する叙唱(感謝の賛歌の前、司祭が唱える賛歌)の中で、次のような部分があります。「あなたは⼈類を⼗字架の⽊によってお救いになり、⽊から死が始まったように、⽊から⽣命を復活させ、⽊によって勝ち誇った悪霊を、⽊によって打ち滅ぼしてくださいました。」という部分です。罪と死はいつも⼈のそばにあって、⼈が⾃分を神様より⾼めようとするように誘い、その結果、神様に背いて、⼿を伸ばしてはならない世の様々な⽊に向かって、⼿を伸ばすようにします。しかし、イエス様は、ただ、神様が与えてくださった⼗字架の⽊に向かって、ご⾃⾝の⼿を伸ばし、それを抱いてくださいました。私たちの⼿はどんな⽊に向かって伸ばされているのか、静かに顧みたいと思います。今⽇、イエス様の受難の祭儀を⾏いながら、信者の皆さんがイエス様の愛をもっと豊かに頂くことができるよう、お祈りいたします。

カトリック二俣川教会主任司祭  ヤコブ姜 真求

 

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