姜真求神父 復活の主日の説教

 「ついに、イエス様が復活されました。アレルヤ、アレルヤ。」

二俣川教会の兄弟姉妹の皆さん、イエス様のご復活、おめでとうございます。復活されたイエス様の恵みと平和が信者の皆さんに与えられますように。

 

神様は世の罪を除く為、イエス様をこの世の悪に任せられましたが、イエス様の復活を通して、罪と悪の力を打ち砕かれました。また、それらの力は神様ご自身の愛と慈しみに絶対に勝てないことを証しされました。こうして神様はアダムの原罪から始まった罪と死の歴史を終息させて、新しい永遠の命の歴史を開いて下さったのです。この新しい歴史は世に属してそれに従って生きている人達には許されず、イエス様の十字架の死を共にする人々だけに許される歴史なのです。それに対して、イエス様は既に次のように仰いました。「自分の命を守ろうとする人は命を失うが、私の為、また、福音の為に命を失う人は命を得る。」と。確かに、イエス様は神様の救いの計画を完成する為、私達に先立ってご自分の命を捧げ、私達も同じ生き方に沿って生きることによって、真の命を得ることができるようにして下さいました。それで、イエス様の十字架は「罪と罰の徴」でしたが、復活によって「新しい命の徴」となったでしょう。

 一方、イエス様の十字架は神様の愛と慈しみの勝利を表す徴でもあります。神様はイエス様の十字架を通して罪と死を打ち砕かれ、全ての命を覆っていた苦しみと悲しみの暗闇を取り去って下さいました。実際、イエス様は、かつて、ナインの若者を甦らせ、また、ラザロも復活させて下さり、その死の苦しみと悲しみに沈んでいた人々に希望と喜びを取り戻して下さいました。そして、ご自身の復活を通して、全ての人が復活と永遠の命への希望を抱くようにして下さいました。そのイエス様の十字架で輝いている希望の光をいつも仰ぎ見ながら、その十字架と共に歩むべきです。

 教会はその勝利と希望を表す為に、毎年、新しい復活の蝋燭を祝別しています。その特別な蝋燭を祝別する時、司祭は先のとがった鋭い物で、蝋燭に十字架の徴、アルファ(Α)とオメガ(Ω)、そして、その年の年数を刻みます。また、イエス様の五つの傷を表す五つの香を十字架の上下左右と真ん中に付けます。それは、その蝋燭自体が復活されたイエス様であることを示す為の行為ですが、私達の罪や過ちの為に傷ついておられるイエス様の悲しみの深さを、十字架に刻み入れるという意味もあると思います。また、私達に向かう神様とイエス様の変わらぬ愛と慈しみの豊かさをも現わすと思います。その復活の蝋燭から、私達は真の王であり主であるイエス様、また、世を照らす真の光であるイエス様の復活の神秘を悟ることができるのです。このように、復活の蝋燭は私達の復活と永遠の命への信仰を示します。そのため、復活の蝋燭は、復活説の期間、また、洗礼式や堅信式、そしてまた、葬儀のミサで、祭壇の上に置かれるのです。それは新しい命の門出を開いて下さったイエス様が共におられ、私達を永遠の命に導いて下さるということを意味しています。

 さて、まだ先が見えない新型コロナウイルスの為、世界の全ての人々の命が脅かされています。今まで経験したこともない状況に遭って、全ての人が慌てています。都市封鎖とか医療崩壊、或は、経済崩壊などの不安な言葉が毎日聞こえてきたり、また、緊急事態が宣言されたりして、行動の自粛が強調されています。教会も現実に、ミサや信者達の集いを全面的に中止しています。まさに、今回の新型コロナウイルスは、私達の普段の生活をことごとく止めようとしているのではないかという気がするほどです。このような状況で迎えた今年の復活祭は本当に寂しくて悲しい復活祭になりました。厳粛で荘厳な典礼もないし、それに相応しい聖歌もありません。復活の喜びを分かち合う為の復活の卵も、お祝いのパーティーも、復活の挨拶を分かち合う信者の皆さんの姿も見られません。四旬節の始めはこれほどまでにはならないだろうと思っていましたが、今は、一体いつまでこのような状態が続くのかという不安に包まれています。まるで、全てが止まっているような感じがあります。

 しかし、こんな悲しい復活祭を迎えるにあたって、私はある予言のような言葉を思い出し、それを味わいながら黙想してみました。それは「すべてのいのちを守るため」という、去年の教皇様の来日のキャッチフレーズと、私たちの心に響かせて下さった教皇様の様々な言葉でした。やはり、今は全てのいのちが脅かされています。毎日、多くの人々が亡くなっているし、さらに多くの人達が病魔と死闘を続けています。医療従事者は勿論、全ての人が新型コロナウイルスと戦っている現実です。教皇様はこんなことを前もって予測されたのかという気がしますが、来日された時「すべてのいのちを守るためには何が必要なのか」について、色々な素晴らしい言葉を聞かせて下さいました。その中で私の心に残っているのは「互いに支え合う」という言葉です。

 実際、神様が全てのものに勝るものとして作られた人間は、今まで、たくさんの素晴らしくて華々しい文化を築いてきました。しかし、その一方、神様から頂いた知恵や理性を悪用して、多くの命を奪ってしまったことも事実です。たくさんの人々が戦争や内戦、病気や飢えに苦しんでいますが、それを止めようとはしていません。埃で作られた人間なのに、埃のようなものを誇りとしています。そして、今は、埃よりも小さなウイルスと戦いながら、それに打ち勝って、その勝利を人類の素晴らしい業として誇ろうとしています。確かに、人間はこのウイルスに打ち勝つはずです。でも、心配なことは、もしかすると、その勝利を通して私達がもっと高慢な者となるかもしれないということです。そうなると、人間は神様との戦いをも、ためらうことなくやろうとするかもしれません。復活されたイエス様は神様と戦わず、むしろ、十字架の死まで受け入れ、神様に忠実に従う僕となられました。それは全ての命を守る為の死だったのです。

 今、教会はイエス様の空いているお墓のように静けさに包まれています。もしかすると、神様はこれを望んでおられるかもしれません。典礼とか色々な活動や集いも大事なことですが、神様が望まれるのは、私達が自分をへりくだって悔い改めること、また、打ち砕かれた心を持つことではないかと思います。今の病気がどこから来たのかは分かりませんが、確かなことは皆が原点に戻って、初めから始めなければならないということです。互いに、支え合い、尊敬し合い、助け合い、愛し合うこと、また、最も弱い人々を大事にすることを、改めて学ぶ必要があります。それには、私達一人一人が愛のウイルスとなって、皆の為に働くことが大切です。寂しくて悲しい復活祭ですが、私達がそのように生きようとしたら、神様は必ず私達を力付け、また、助けて下さると確信しています。復活されたイエス様の真の愛と光が信者の皆さんを照らしてくださいますように。アーメン。

カトリック二俣川教会主任司祭  ヤコブ姜 真求

 

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