姜真求神父 復活節第6主日の説教

 

 例年通りなら、今は教会の様々な行事で大変忙しい時期ですが、今年は何もできない状況が続いていて、時々、「これで、大丈夫かな。」という心配が湧き出たりします。四旬節の第1主日の説教から、その前置きはほとんど新型コロナウイルスの話でしたが、このような形の説教の冒頭は何か悲しさが深まるような気がします。けれども今の状況の中では、神様の慈しみと憐れみを祈り求めることが大事なことなので、今日も説教を始めるに当って、神様が早めにこの試練から私達を解放して下さることをお願い致します。

 毎日、夜9時に一人でミサを捧げることが、私にとってはおかしくないようになっています。信者の皆さんにとっては、このような私の言葉が意外に聞こえるかもしれませんが、正直な気持ちです。というのが、「いいなあ。」とか「嬉しい。」という気持ちでないことは、信者の皆さんもおわかりでしょう。とにかく、独りでミサを捧げながら、私は司祭としての自分のことや今までのことを、心静かに顧みています。叙階されたばかりの駆け出しの時からもう25年が経ちましたが、その長い年月の間、神様の前で自分の顔を上げられるほどのことは何一つなかったと感じています。それで、毎晩ミサを捧げながら、度々、祭壇の正面にかけられているイエス様の眼差しが感じられて、背中が熱くなります。そのイエス様が「あなたは私を愛しているのか。」と問いかけておられるように感じるからです。

 最後の晩餐の席で、ご自身の御体と御血を命の糧と救いの飲み物として与えて下さったイエス様は、自らを神の民の羊飼いであると言われました。併せて、先週の主日の福音では、ご自身が道であり、真理であり、命であることをお示しになり、イエス様を通らなければ誰も神様のもとに行くことができないともおっしゃいました。そして、今日の福音でイエス様は信じる人が、どうしたらイエス様から離れずに生きることができるのかについて教えて下さいました。それは「イエス様を愛し、また、イエス様の掟を守る」ことなのです。今日の福音で、イエス様は弟子達に真理の霊である聖霊について語られましたが、その聖霊によって弟子達がイエス様の内にいることができるとおっしゃいました。その真理の霊は、イエス様が弟子たちに教えてくださった全てのことを、彼らにはっきり悟らせてくださる方です。また、その霊は弟子達がどんな状況に出遭っても、イエス様の掟を守りながら、それに沿って生きるように力付けてくださる方でもあります。こうして、イエス様はご自身が御父のもとに帰って行っても、聖霊を通していつも弟子達と共にいることを約束してくださいました。言い換えれば、弟子達は聖霊に従って生きることによって、イエス様から離れず、イエス様の内にいることができるということです。

 イエス様はご自身の弟子達がいつも、福音の喜びや救いの希望の中で生きることを望まれましたが、一方、彼らが受けねばならない苦しみや迫害について、既にご存じでした。それで、彼らが様々な困難や迫害に遭っても、揺らぐことのないように聖霊を送ると約束してくださったのです。実際、今日の第1朗読や第2朗読を通して、私達はイエス様の弟子達がいつも信仰の喜びの中にだけいるわけではなかったことが分かります。弟子達、すなわち、イエス様の復活の証人となった使徒達は、エルサレムを始め、サマリア、また、異邦人のところへ遣わされて、神様を知らなかった人々にイエス様の福音を宣べ伝えました。そして、その福音の証として色々な徴や奇跡をも行いました。しかし、ある時には多くの人々がその福音を受け入れて信じる人となり、またある時には、自分たちの命が脅かされるほどの大きな反対や迫害を受けねばなりませんでした。それは使徒ペトロが自分の手紙で語っている通りで、自分たちや教会の人達は歓迎だけではなく、苦しみや反対にもさらされているということです。その予想できない、まるで、先が見えない信仰の道で、彼らが迷わず救いの真理を伝えることができたのは、イエス様が約束された聖霊の導きがあったからです。彼らは聖霊に自分達の全てを任せることによって、ただ、イエス様を愛し、その掟、つまり、「互いに愛し合いなさい。」という掟を忠実に守ることができました。また、そのようにして、イエス様の内に留まり、神様との一致の中で生きることができました。

 さて、いつまでこの状況が続くのか分かりませんし、毎日、色々な情報を聞いていますが、出口はまだ見えません。でも、よく考えてみたら、私たち人間以外のものはあまり変わっていません。自然は移り変わり、季節はもう夏になろうとしています。ただ人間の社会だけが、まだ眠りについているように見えます。しかし、私たち信仰のある人々は、いつも、目覚めていなければなりません。イエス様は、「世は真理の霊を見ようとも、知ろうともしないので受け入れることができないが、弟子たちは真理の聖霊を知っている」とおっしゃいました。つまり、世は、人が真理の霊を見つけることや悟ることを遮ろうとしているので、世に属している人は聖霊に従えないということです。イエス様のこの言葉は確実なことですが、実際、洗礼によって聖霊をいただいている信者の皆さんも、注意しなければ、あっという間に世に属してしまう者となる可能性があります。だからこそ、私たちは聖霊の光で照らされて、いつも、イエス様のみ言葉を心に刻んでおいて、それに沿って生きるべきです。特に、今の状況の中で、私たちは世の悪い動きや兆しに目覚めていなければならないと思います。世は、過去の様々な過ちや清くなかったこと、また、悪い企みを隠して、人がそれに気づかないまま生きることを望んでいます。それに対して、私たち信仰のある人々は、真理の聖霊に従い、また、イエス様の愛に沿って歩んで、この世の中で、神様が使われる光と塩となるべきだと思います。

 さて、祭壇の上の私はイエス様を背にしていますが、信者の皆さんは正面に向き合っていて大変でしょう。でも、後面であれ、正面であれ、イエス様はいつも私達を見つめておられます。それを考えながら、これからもイエス様と目を合わせるに相応しい信者として過ごせれば幸いです。今は私一人でミサを捧げていますが、いつも信者の皆さんのことを考えています。また、まだ厳しい状況が続きますが、その中でも医療の現場で汗を流している人々や病気と闘っている人々、併せて、悔しいことですが、大事な命を失った人々やその家族の為にも祈りたいと思います。

 慈しみ深い神様、あなただけにより頼む私たちを憐れんでください。アーメン。

 

カトリック二俣川教会主任司祭  ヤコブ姜 真求

 

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