誰もが経験したこともない今回の新型コロナウイルスは、今までの私達の生活様式や考え方を完全に変えるほどの勢いで全世界に広まっています。でも、まだ確かな薬やワクチンが見つからないので、とにかく皆が個人の衛生に気を遣いつつ、互いの為のソーシャルディスタンスや会話のエチケットなどを守ることが大事だと思います。私も同じですが、人との間に適当な距離を持つことはあまり慣れていないことで、それを守りながら会議や会話をすると何か不自然な気持ちになります。それでこの病気は私達を隔てようとするのではないかという気さえしますが、一方、今までの私たちの関わり、付き合い、また、繋がりについて考えさせるような感じもあります。言い換えれば、今まで私たちがどのように関わったり、付き合ったり、繋がったりしてきたのか、また、その関係をどれほど大事にしてきたのかを顧みる機会を与えてくれたということです。実際、今、世界の国々で、アメリカで起こった黒人男性の死亡事件を巡って、多くの人々の憤りが噴出しています。それはただの人種差別の問題だけではなく、人類が今まで、特に、この前の一世紀の間、どれほど人間の価値を軽んじてきたのかについての反省であり、新しい道を見つけようとする人類全体の重要な動きでもあると思います。新型コロナウイルスという暗いトンネルの中を共に歩んでいる人類が、このトンネルの中で互いを責めたり、批判したり、強いたりすることではなく、平和な共存の道を見つけることを望み、また、お祈り致します。

今日はキリスト・イエス様の御体と御血の神秘を記念する祭日です。ただ独りの御子を与えるほど世を愛された神様は、そのイエス様の御体と御血によって罪深い人間達との新しい契約を結ぶことを望まれました。その契約はかつて、モーセを通して旧約のイスラエルの民と結ばれたものですが、神様はイエス様を通して、完全で変わることのない永遠の契約を結んで下さったのです。昔の契約である旧約によって、神様はエジプトの奴隷の身分やその生活からイスラエルを解放され、彼らをご自分の民とされました。しかし、イスラエルはエジプトから離れた時からずっと神様に背き、繰り返して罪を犯しました。彼らは荒れ野の渇きや飢えに耐えることが出来ず、何度も神様に苦しみを訴え続けました。その上、エジプトでの生活に憧れた彼らはそこへ帰ろうとし、その為に他の人を唆したり、モーセに反抗したりして、皆が神様から遠ざかるように扇動しました。でも、神様はそれをご覧になってもモーセの忠実な信仰を認め、彼らとの契約を見捨てられませんでした。その荒れ野での様々なことに対してモーセは、今日の第1朗読を通して民全体に改めて警告しています。今日のモーセの話は、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きる」という一言で纏められます。つまり、人は神様に従うべきもので、神様は人間が自分の人生の様々な苦しみや悩みの中でも神様を忘れず、むしろその苦労を通して神様の民として一つとなって成長することを望んでおられるということです。

今日の福音で、イエス様はご自分の肉は真の食べ物で、血は真の飲み物であるとはっきり言われました。また、その肉と血とを命の食べ物と救いの飲み物として与えて下さいました。それはご自分を信じて従う全ての人が永遠の命を得る為でした。その永遠の命とは人間が三位一体の神様のうちにいるということ、つまり、神様のうちに永遠に生きることです。イエス様はそういう賜物を与えられる為に、最後の晩餐でパンと葡萄酒をもって旧約の過越し祭を行われましたが、その時パンをご自分の体として、また、葡萄酒をご自身の血として与えて下さいました。それは単に旧約の祭りの再演ではなく、新しい契約の締結で、イエス様はその契約をご自分の十字架上の血によってはっきりと確認させて下さったのです。併せて、イエス様はその契約を弟子達に任せ、彼らがパンと葡萄酒の祭儀を行うことによってイエス様ご自身を記念するようにと命じられました。それが今、私達が行っているミサ聖祭なのです。

今日の第2朗読で使徒パウロは、イエス様が結んで下さった新しい契約の内容について話しています。その契約は一つのパンと一つの杯によって結ばれたので、私たちはそのパンと杯によって一つの体になるということです。事実、イエス様は罪を犯して散らされている人を神様のもとに呼び集める為に来られました。それは聖霊降臨の出来事を通しても分かりますが、聖霊はイエス様がご自分の命を懸けて結んで下さった契約の証として与えられたのです。その聖霊が来られたのはイスラエルの五旬節という祭日で、その日はイスラエルの民がエジプトから解放されてから50日目の日でした。その日、イスラエルの民はシナイ山の麓に集まって、モーセを通してシナイ山で神様と契約を結び、神様の民となりました。同じく、聖霊は イエス様の復活から50日目の日に来られ、弱り果てた弟子達やイエス様の死刑を要求した罪人達、イエス様の復活を信じなかった人達、また、神様を知らなかった人達を集めて、神様の新しい民とされたのです。その新しい民は教会と呼ばれ、イエス様の新しい契約に与る民としてイエス様の御体を命の食べ物とし、イエス様の御血を救いの飲み物として頂き、毎日のミサを通してそのイエス様の契約を更新しているのです。確かに、イエス様は今日も聖体と聖血の形で私達の内におられ、それを頂く人達がご自分の内に集まり、御父の内にもいることが出来るようにして下さいます。このミサが行われる教会には一切の差別や分裂、葛藤や対立があってはならないでしょう。なぜなら、私達は自分の能力や知識や力などにかかわらず、イエス様の一つの御体と御血によって救われ、また、集められている人達だからです。

さて、この困難な状況の中で、日本各地の花火師さんがそれぞれの場所で花火を打ち上げ、多くの人達に慰めと力とを与えてくれました。本当に素晴らしく、また、羨ましかったです。なぜなら、彼らは自分たちのできる最善を行い、皆の心を一つにしてくれたからです。多くの人々が集まっている所で、うまく準備されて行われることではなく、ただ、花火そのものだけでしたが、むしろ、感動や感激はもっと大きかったでしょう。それを考えながら、全世界の教会はすでにキリストの一つの御体と御血を持ってミサという一つの祭儀を行いながら、果たして、世界の人々にどれほどの希望や慰めを与えたのかが気になりました。もしかすると、ミサはもはや見世物となってしまったのではないかとも思われます。

今日ようやくミサの再開ができた喜びを神様に感謝し、また、困難の中でもミサへの霊的な与りに務めて来られた信者の皆さんにも感謝致します。これからはもっと一生懸命にこのミサを捧げたいと思います。ところが、韓国の神学校のある教授神父様が、「イエス様はミサを制定されましたが、典礼を造られたのではない。」と仰いました。つまり、ミサはイエス様を思い起こしその精神性を各々の生活の中で実践することですから、再演される演劇のようではなく、生きているものとなければならない、と言うことだと思います。勿論、典礼の各要素は尊重され、また、忠実に守るべきですが、それが優先されて、イエス様の御体と御血の精神、つまり、人に向かう愛と慈しみ、和解と赦し、平和と一致を忘れたら、それは何の役にも立たないのです。ミサはイエス様のことの再演ではなく、再現なのです。これからの私達のミサが神様のみ旨に適うものとなるように互いに努力しつつ、もっと忠実にこのミサに与るべきだと思います。そうすれば、どんな素晴らしい花火よりもっと大きな力と希望と愛をもたらすでしょう。まだ皆さんが集まることは無理ですが、いつか、神様は私達を集めて下さると確信しています。その日まで、毎回のミサに参加する各地区の信者さん達が皆さんの代表としてミサを捧げつつ、神様の恵みを切に祈り求めることが大事なことです。このミサの中で、神様がこの難関から私達を解放して下さることと、一日も早く皆を集めて下さることをお願い致します。アーメン。

 

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