私は神学校3年生の時、教区の神学生達の夏の休みのプログラムに沿って、農村体験活動に参加したことがあります。それはその時代の韓国社会の中で最も弱い立場となってしまった農村の現実的な問題と苦しみを学び、神学生として人々が毎日の生活をどう過ごしているのかを学ぶためのものでした。約1週間、農村で過ごしましたが、その時一番先に学んだのは、稲とそれに似ている毒麦のような雑草を区別することでした。そして、毎日、田んぼに行って、稲の中に育っているその雑草を抜いたりしました。その作業は簡単なことのようでしたが、実際には時間もかかるし、慎重にしなければならない作業でした。なぜなら、その毒麦のような草は自分の根を稲の根に絡めて育っているので、間違えたら、元気な稲まで抜く恐れがあるからです。それで、毎日のご飯がどれほどの汗と涙の実りなのかが、生まれて初めて分かりました。もう32年前の経験でしたが、今日の福音を読みながら、その時の思い出が頭をよぎりました。

今日の福音には天の国に関する三つの例えが書かれています。先ず、福音の全体的な構成を調べたら、「毒麦の例えとからし種の例え、また、パン種の例え」が書いてあり、続いて、なぜイエス様は例えを用いて教えられたのか、その理由が説明されています。そして、その三つの例えの中で毒麦の例えの意味だけ話されましたが、それは弟子たちの質問に対しての説明でした。福音の構成について簡単に調べてみましたが、ちょっと注目したいことが二つあります。一つは、イエス様が例えで教えられた理由について、そしてもう一つは、なぜ弟子たちは三つのたとえのそれぞれの意味ではなく、特に毒麦の例えについてだけ質問したのかということです。それで今日は先ず、からし種の例えとパン種の例えについて話して、それから、毒麦の例えについて説教を続けたいと思います。

弟子たちがからし種やパン種の例えについて質問しなかったことは、その二つの例えの意味が分かっていたからだと言えます。つまり、その二つの例えは誰が聞いても意味がはっきり分かるものだったということです。外見的には、この二つの例えは似ているように見えます。でももっと注意深く見たら、これらの例えは全く同じことを示していることではないことに気づきます。まず、からし種の例えは神様の国の生命力と豊かさを表していて、神様の国はその小さな種から始まることを示しています。その種、言い換えれば、神様の愛の御言葉は、今すぐ大きくて豊かな幸福をもたらす種を求める人々には、とんでもないようなものとして扱われるかもしれません。それで、そういう人たちによって御言葉は捨てられてしまう可能性もあります。しかし、からし種がどういう物かが分かる人、つまり、神様を信じる人々にとっては、神様の御言葉は世の中の他のものとは比べられないほど価値のあることが分かりますから、それを自分の心に受け止めます。そのようにして、信じる人々の心に蒔かれた神様の御言葉は、自ら成長し、すべての人がその人を通して神様の恵みを頂くことができるようになるのです。もし、私たちがそのような人になることを望んだら、先ず、神様の愛のみ言葉を身近にすることが大事なことです。また、愛の生活を通してその種を育むことも重要なことだと思います。そういう生活を通らなければ、愛の御言葉は私たちの中でそのまま萎れてしまうかもしれません。

次の例えはパン種の例えですが、それは神様の国の完全性を表す例えだと言えます。粉にパン種を入れたら、それが膨れるのは当然なことです。そう考えると、パン種の例えはからし種の例えと同じことを示しているような思いがします。しかし、わたしは「三サトン」という言葉に心を留めたいと思います。信者の皆さんもご存知だと思いますが、聖書の数字はそのままそれぞれの特別な意味を持っています。その中で「三」という数字は、特に「完全性」を表します。つまり、三サトンの粉とは、パンを作るための十分な食材であるということを意味します。ところが、イエス様はその完全な食材にパン種を加えられ、その粉全体が膨れることを教えてくださいました。言い換えれば、すでに用意されていた三サトンの粉はこの世の中の豊かさや完全性を表しますが、パン種によって膨れた粉は神様の国の豊富さと完全性を示しているのです。そのパン種も神様の愛の御言葉を意味していて、人はその御言葉によってこの世からすでに神様の国の豊かさと完全性に与ることが出来ることが分かります。でも、今の現世的なことだけにこだわったり、或いは、世の中のものだけで満足したり、或いはまた、そういうものだけを追い求めたりしたら、神様の国の完全な祝福には与れないようになるはずです。そういうわけで、信仰のある人々は、常に、神様の御言葉を持っていなければなりません。その御言葉によって完全になり、神様の国にふさわしい人となることができるのです。

さて、以上の二つの例えは神様の国の豊かさと完全性などを表し、それを考えてみることだけで、ある希望とか楽しみ、或は、喜びなどが感じられます。それで、神様の国がもっと早く来ることを望むようになります。ここで、今日の福音の最初の例えについて考えてみたいと思います。この例えについては、イエス様ご自身が詳しい意味をはっきりと教えてくださいましたので、別の説明は必要ではないと思います。ただ、今日私は、信仰のある私たちが行わなければならない戦いについて話したいと思います。先程話しましたが、からし種とパン種の例えは、内容もイメージも本当に穏やかで平穏な気がします。それに比べて、毒麦の例えは敵との争い、或は、戦いを前提としています。良い種を蒔いて豊かな収穫を望んでいた人には、すでに、それをねたんでいる敵がいたようです。どうでしょうか。普通、敵との戦いは戦争とか紛争であり、その為にはうまく訓練された兵士たちや様々な武器が必要です。しかし、今日のこの例えは、まるで、「食糧戦争」のような感じがあります。武器をもって直接に戦うのではなく、相手側の一致や信頼を始め、愛のつながりを崩すことを狙ったものでしょう。確かに、そういうことまで工夫した敵に比べて、良い種を蒔いた人のやり方は最後の最後まで待っていることしかないように見えます。でも、それは自分が蒔いた一本一本の大事な良い種を守るための知恵でしょう。

そのように、神様は私たちが一人でも滅んでしまうことを望んでおられません。むしろ、今日の第1朗読のように、神様は全ての人がご自身に従い、人間への愛を持つことを望んでおられます。それは天地創造のときからのお望みで、イエス様は今日の例えを通して、神様がどれほど慈しみ深い方なのか、また、その国がどれほど完全で豊かな国なのかを教えてくださいました。併せて、神様の人間に向かう愛と赦しの深さもお示しになりました。神様はご自身を信じている私たちにその慈しみと愛の霊を注いでくださり、今日の第2朗読の内容のように、私たちがその霊と共に働き、共に祈り、また、共に成長することを望まれます。でも、その神様のお望みに適うものとなるためには、毒麦との戦いを行わねばなりません。それで、イエス様は今日、先ず、毒麦とそれを蒔いた敵との戦いを表す例えを話され、次に、その戦いに勝ってから得られる神様の国の豊かさや完全性を表す二つの穏やかな例えをおっしゃったのです。その戦いに勝つためにも、神様の御言葉と愛の生活を大事にすべきです。私たちに蒔かれたその小さなからし種とパン種、また、愛と慈しみの良い種を大事にし、それをうまく育むことによって、この世に神様の国が建てられるでしょう。皆が互いに愛し合い、助け合い、支え合うことこそが、真の平和の道であり、真の信仰の道でもあります。今日のミサを捧げながら、私たちがそのような共同体となり、この世から目に見える神様の国になることができるよう、心を込めてお祈りいたします。

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