旧約聖書に記されているイスラエルの歴史によると、サムエルの時代に初めて民の王が登場します。それは民全体がサムエルに要求した結果でしたが、その要求のためにサムエルは心を痛めました。なぜなら、彼らの要求の裏には、神様に向かう不信仰と、王によって治められていた他国の繁栄についての羨ましさがあったからです。つまり、イスラエルの民は、神様の直接な統治より、自分たちの知恵や力で国を運営したかったということです。神様はその要求を受け止められて王による統治を赦されましたが、それから、王が立てられ、それと共に偽りの預言者や偶像を敬う司祭たちが現れ始めました。そして、イスラエルの民は自分たちの能力で国を運営できると思いましたが、外国のようになったばかりか、むしろ、その王や彼に従う偽りの預言者たち、また、偶像の司祭たちの虐政に虐げられてしまったのです。それをご覧になった神様は、多くの預言者を遣わされてイスラエルの民を正しい道に導こうとされましたが、その預言者たちは王の憎しみの的となり、結局、神様の真の預言者たちは酷い迫害を受けねばならないようになりました。結果的に、イスラエルは自分たちが憧れた他国の姿に倣うことができたけれども、同時に、他国の王の支配も受けねばならないかわいそうな国民となってしまったのです。こうした聖書の歴史を考えてみたら、もはや、人類の歴史とは神様との戦いの歴史ではないかという気がします。また、神様から遠ざかろうとしている人間とご自分のもとに呼び集めようとされる神様との歴史でもあることも分かります。今日はそういうことを考えながら、神様の御言葉とイエス様の福音を黙想したいと思います。

今日の福音でイエス様は使徒ペトロを責められました。ペトロは今日の福音の前の場面では、イエス様に「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白し、イエス様から「教会の岩」と呼ばれて天の国のカギをいただきましたが、 今日はイエス様に「サタン」と言われてひどく怒られてしまったのです。それはイエス様がご自分の受難と死と復活について、前もっておっしゃったのに、ペトロはそのイエス様のことを妨げようとしたからです。イエス様はペトロに「あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われました。つまり、ペトロはイエス様を通して完成されるべき救いの計画を正面から反対したので、イエス様はそれに対して彼を責められたのです。つまりペトロは、アッと言う間に天国から地獄へと転げ落ちた気分だったでしょう。

事実、ペトロはイエス様の受難と死の意味が分かりませんでした。自分が告白したメシアは絶対にそのように扱われてはいけないと、彼は思っていたでしょう。しかし、イエス様はご自分の受難と死と復活をもって、人間を罪と死から救おうとされました。それはイエス様の御父である神様の意向で、イエス様はそれに従わねばならないことを、今日の福音ではっきりとおっしゃったのです。言い換えれば、メシアについてのペトロとイエス様との考えは異なっていたということです。ペトロは栄光に満ちている絶対君主のようなメシアのことを考えていましたが、イエス様は、むしろ、神様に従う僕としてのメシアの生き方をご自分の生き方として受け入れられました。イエス様はそういうメシアの使命を果たして、人間を救い、更に、すべての人がご自分の生き方に沿って生きて、神様の永遠の命に与ることを望んでおられました。それで、ペトロを責められたうえで、弟子たちもメシアであるイエス様のように生きて、イエス様と同じ報い、つまり、永遠の命を得るようにと、教えてくださったのです。

確かに、聖霊をいただいてから真の使徒となった弟子たちは、命を懸けてイエス様のことを勇敢に伝え、多くの人々を救いの道に導きました。その中の一人であった使徒パウロも、元々は教会を迫害しましたが、イエス様に出会ってから、イエス様の生き方を伝えることに全力を果たしました。彼は今日の第2朗読の言葉のように、「心を新たにして」神様によって変わり、「何が神様の御心であるか、何が善いことで、神様に喜ばれ、また完全なことであるかを」わきまえて、それを実践しました。言い換えれば、「神様に喜ばれる聖なる生ける生贄」として、自分を神様にささげたのです。それはイエス様のように、また、先輩であり、仲間であった他の使徒たちのように、多くの人を真の命へ導くためのことでした。回心する前のパウロにとっては、イエス様や使徒たちの生き方、つまり、自分の命さえ惜しまず差し出すほどの愛の生き方は、世の中とは合わないことで、ある観点から見たら、世の中で他の人たちに負けてしまう生き方だったでしょう。しかし、イエス様と教会を迫害したパウロは、自分の罪がイエス様の愛と慈しみによって赦されてからは、むしろ、イエス様に負けることを望むようになりました。それは今日の第1朗読のエレミヤと同様で、彼も神様のことで苦しみながらも、神様に負けることをそのまま受け入れて、神様の意向に沿って生きたのです。エレミヤも弟子たちも、また、使徒パウロも、イエス様のように神様に負けることを喜びました。なぜなら、人は神様に負けるから、真の勝利をおさめ、神様の永遠の命に与ることができることを悟ったからです。神様に負けることは神様に従うことで、イエス様は自らその模範を示してくださり、旧約の預言者たちも、イエス様の使徒たちも、その模範に倣いました。だからこそ、私たちもそのように神様に従いつつ、イエス様の愛の生き方に沿って生きるべきです。私たちがイエス様のように自分を捨て、神様に従いながら、愛の生活を続ければ、私達にも素晴らしい報いが与えられるでしょう。

さて、奥歯の問題で2ヶ月くらい歯医者さんに通っていますが、その医院の治療椅子に座ったら、ただお医者さんに自分を任せることしか出来ないことをひしひしと感じます。病気とはそういうものでしょう。自分では見えないので、お医者さんを信じ、自分の身を任せることしかすべがありません。神様を信じている私たちも同じです。神様に従うことは、神様に任せることで、神様ご自身だけがすべてをご存じだからそうしなければなりません。特に、教会の人たちは、「何が神様の御心で、どうやってそれに従い、また、実践することができるか。」を、常に自分の胸に刻んでおかねばなりません。私たちは神様の霊とイエス様の愛の光に照らされて初めて神様の意向が分かりますので、この世の中の様々な危うい状況の中でも、神様の意向をはっきりと語り、また、行わねばなりません。なぜなら、私たち信仰のある人たちが黙っていたら、世の中の偽りの預言者や様々な形の偶像に従う人たちがあふれてしまう恐れがあるからです。要するに、彼らは、神様に支えられて、また、神様に従って生きることよりも、人間の知識や経験、または、能力だけにより頼むことを訴えています。勿論、世の中にも善なことがたくさんありますが、神様の意向に沿って、イエス様が示してくださった愛の文化を築くことを一番大事にしなければならないと思います。今、この新型コロナウイルスのさなかでも、そういう愚かな人たちが自分の本音を隠して、全人類をもっと危うい道に導こうとしているかのような気がします。こういう状況にあっても、信仰のある私たちはいつも目覚めているべきです。このミサの中で、私たちが神様とイエス様にもっと近づくことができるように、必要な恵みと導きを祈り求めましょう。

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