韓国政府は、現在、防疫のために段階的に国民の行動を制限出来る規則を設けています。それで今度の新型ウイルスに対しても、最初は教会でのミサが全面的に中止されましたが、5月からは少し緩和され、ミサは防疫基準を満たしたうえで許されてきました。しかし、一部のプロテスタント教会はその基準をしっかり守らなかったので、多くの国民が批判の声を上げました。そういう状況の中、ある牧師さんが政治的な集会を開いて、その現場で本人も感染してしまい、更に、その集会に参加した人達によって大きく感染が広まり、それによって再び宗教活動は中止を余儀なくされました。そして、その牧師さんは国費で治療してもらいましたが、退院してからは、政府が礼拝を禁止するのは宗教弾圧だと主張し、更に、多くのプロテスタント教会の牧師さん達も同調し、政府の指針に反発しています。この状況の中で多くの国民が「教会」に対して悪いイメージを持つことになり、カトリックであれプロテスタントであれ、「教会とは何ものか」、或は、「集まるのが本当に教会の本質であるのか」という質問に答えねばならなくなっています。

今日の福音で、イエス様は人の罪をどう扱うか、また、教会はどのように対処すべきかについておっしゃり、さらに、ご自分の名によって集まることについて話をされました。今日の福音を読みながら、わたしは一つの疑問に包まれました。それは「なぜ教会は、人と人との間に生じた罪について仲介したり判断したりする役割を行わねばならないのか」という疑問で、わたしの黙想はそれから始まりました。そして、罪とはどういうものなのかについて考えてみました。罪に関する神学的な説明によると、罪は人と人、人と自然、また、人と神様を引き裂くものだと言われます。つまり、罪によって、人間は他人と一緒になることもできず、また、自分を含める自然万物と共に過ごすこともできず、更に、神様との交わりもできなくなるのです。事実、罪は傲慢な心から始まるもので、人間は自分が他人より優れる者で、自然よりも偉大な存在だと思って、他人の上で君臨したり、自然の摂理に逆らったりするのです。しかし、すべての罪は原罪、すなわち、神様より自分を高めようとする心から始まり、結局、罪によって人間は神様に逆らう者となってしまうのです。簡単に纏めると、罪とは原罪から始まるもので、それによって人は他人や自然、神様との関係を崩すことになるのだと言えます。

話がちょっと難しくなりましたが、ここで昔の赦しの秘跡の式次第分を紹介したいと思います。本来、赦しの秘跡を正しく行うためには、まず、自分が何の罪を犯したのかを深く思い起こすことが求められます。そして、告解室でその罪を告白しますが、その時、「なぜ、そういう罪を犯すことになったのか。」という罪の次第の説明はしてはいけないと言われます。なぜなら、それを説明するうちに、罪を犯した自分は消えてしまい、むしろ、他人を告発する恐れがあるからです。とにかく、昔は、自分の罪をことごとく告白した上で、最後に「このほかに、思い起こせなかった罪と、他人が私のせいで犯した罪まで告白しますので、それもお許しください。」と唱えました。自分も知らないうちに、他人に罪の機会を与えたかもしれないのでそう唱えましたが、事実、それさえも自分の罪なのだと認めるためです。その罪の機会とは、例えば、自分の実際の罪によるのかもしれないし、或いは、自分の何気ない言葉や行いによったのかもしれません。どちらにしても、教会の人は、自分の思い、言葉、行いにもっと気を付けねばならないと思います。そうしないと、人間関係を始め、教会の中での自然な共同生活や、神様との関係にもひびが入るかもしれません。また、教会としては、信者同士の関係や神様との関係を守ることも大変なことですから、罪については教会のある程度の判断や仲介も必要だと思います。

今日の福音で、イエス様は罪を犯した兄弟について、まず、彼とただ二人で解決することを勧められました。それができなくなったら、今度は一人か二人の他の人と共に、その兄弟に声をかけて問題を解くようにと教えられ、それが聞き入れられなかったら、教会に知らせ、教会が和解の務めを果たすことを教えてくださいました。いずれにしても、その一連の流れは和解と一致の為のことで、信仰のある人や教会は最後の最後まで、人を諦めてはいけないということを表す御言葉だと思います。事実、教会はイエス様の死によってあがなわれた人達の集りで、イエス様と共に罪に対して死に、イエス様の復活によって、神様との新しいつながりを築いている人達の集りでもあります。言い換えれば、自分の罪か他人の罪かに、また、その罪の軽さや重さにかかわらず、罪による分裂や差別、いじめなどは神様の望まれることではないということです。むしろ、教会は一人の人でも、イエス様による救いに与れるよう働かねばなりません。

それは今日の第1朗読の預言者の行うべきことにもよく書いてあります。偶像崇拝やそれに伴う様々な罪、不正義や搾取によって民の生活が疲弊し、人間同士が互いに罪を犯していた時代に、預言者は神様の忠告の御言葉を伝え、民を正しい道に導かねばなりませんでした。それは神様の慈しみと愛に基づいて行われることで、神様はそのようにしてでも、民の一人一人を救うことを望んでおられたのです。教会はその預言者の義務を自分のこととして受け入れ、平穏な時代であれ、不安な時代にあれ、その務めを果たすべきです。その務めは、勿論、厳しい裁きや断罪のためではなく、イエス様の愛による救いとその愛の生き方の正しさを証しするためです。それで、今日の第2朗読で、使徒パウロは「隣人を自分のように愛しなさい。」という、イエス様も引用された旧約の掟を用いて、教会の人はイエス様の愛を通してすべての律法を全うするようにと勧めたのです。確かに、私たちにとっては、愛し合うことだけが一番大事な借りに違いありません。なぜなら、皆、イエス様の愛を借りて、罪の赦しによる救いに与っているからです。

さて、福音の後半部分のことですが、二千年の教会の歴史の中で、想像できないほどの多くの人が同じこと、例えば、世界平和などを祈り求めましたが、なぜ、それが叶えられないのかが不思議です。二人三人が心を一つにして願うことは必ず叶えられるとのイエス様の御言葉もあるし、しかも、その小さな集いにイエス様も共におられるとおっしゃいましたが、あまり叶えられていないように感じられます。また、二人三人が心を一つにすることはそれほど難しいことなのかという感じもあります。それで、ちょっと考えてみました。二人三人が心を一つにすることができないのは、皆、自分の心に他人が従うべきだと思っているからではないでしょうか。例え、どんな小さな集いでも、また東京ドームでの5万人ぐらいの大きな集いでも、ただ一つの心、つまり、イエス様の御心に従わねば、何もできないということです。そのイエス様の御心は愛の御心で、神様と人を愛し、互いに赦し合い、支え合うことから実現できます。私たちがイエス様の御心に自分の心を合わせたら、すべてが叶えられるでしょう。教会の集まりが制限されて、それが弾圧だと訴えている韓国の一部のプロテスタント教会のことを考えながら、実際、教会のどんな集いでも、イエス様の御心に従わなければ、それこそ、自らを弾圧していることになるのではないかと思いました。それと共に、私たち信仰のある人たちがこのコロナウイルスのさなかで保つべきこと、もっと倣わねばならないことは、イエス様の愛の御心だと思います。そういうことを考えながら、このミサの間で、イエス様の御心に私たちの心を合わせて、神様の助けを祈り求めましょう。

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☆彡新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り ⇒ COVID-19inoriB7

★9月からの主日ミサスケジュール ⇒ミサスケジュール(0905-1122)A