地区ごとの公開ミサが再開されてから4か月が過ぎて、そろそろ信者の皆さんもこのようなミサの形に慣れてこられたことと思います。でも、そもそも、ミサは集まること、しかも、実際にミサが行われる所に集まることが大事な要素なので、いつか必ずコロナウイルス感染症以前の形に戻らねばならないと、常に願っています。とにかく、今は私一人で主日のミサを準備していますが、その準備の為、香部屋に入って色々な聖具などを運んでいると、時々、昔のある方の姿が、脳裏に浮かんだりします。その方は、実は、私に初めて侍者の活動を誘ってくださった方で、私の出身教会のシスターでした。そのシスターは香部屋の担当シスターで、いつも一人でミサの準備や片づけを担っていました。その時代は、一ヶ所の小教区に二人以上のシスターがいて、その中の一番の後輩が香部屋を担当しました。そのシスターはいつも誰よりも早く聖堂に入って、まだ、誰もいないうちに手早くミサを準備して、ミサが始まるまで、ずっと聖堂の一番奥の座席に座って祈りました。また、ミサが終わってからは、速やかに全てを片づけて、それから、しばらくの間、同じ席で祈りました。そのシスターはあまり誤ることはありませんでしたが、誤ったら誰に対しても謝り、また、他人の過ちに対しては温かく励ましてくれました。そのシスターは、まるで、いるかいないか分からないほど静かに自分の仕事をやっていて、多くの信者さん達に褒められていましたが、その賞賛に対しても、シスターの反応はいつも静かな微笑だけでした。司祭になってからは、教会の雰囲気も変わり、シスターは大きな教会でなければ見かけないようになって、香部屋の役割も、今は一般の信者さん達に任せられていますが、私はそのシスターの姿を忘れることが出来ません。そういう思いがあって、私は教会の奉仕者、特に香部屋の奉仕者達には、いつもそのような姿勢を求めてきました。それこそが、神様に従い、また、教会の人達に仕える人、つまり、神様と教会の僕としての姿であるというのが、深く心に刻まれているからでしょう。

今日の第1朗読で、イザヤ預言者は神様がご自分の民のために用意してくださる宴会について語っています。神様は彼らに救いの喜びと永遠の慰めを与えてくださいますが、その喜びと慰めは神様の救いの御業によって与えられるものなのです。イザヤは神様の民は罪で恥を受けることも、また、その罪の結果である死によって涙することもないようになるということを伝えていますが、イザヤはそういうメッセージを「布」という言葉を用いてはっきり語りました。その布とは、死を表す言葉で、或いは、神様から離れてしまった罪びとの身分を示す言葉でもあると言えます。つまり、人は罪によって神様から遠ざかり、また、そのまま死んでしまって、神様との再会ができなくなるということです。しかし、神様はその罪びとを救われ、彼らの恥と死の布を滅ぼし、更に、彼らのために永遠の喜びの宴を開いてくださいます。その神様の救いの御業とは、勿論、イエス様のことなのです。信者の皆さんもご存知だと思いますが、イエス様が十字架上で亡くなられた時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。それはイエス様の死によって、神様の救いの約束が全うされ、また、永遠の宴会が始まったという意味でしょう。

今日の福音で、イエス様はある王が催した自分の息子の婚宴会のことを、例え話として聞かせてくださいました。この例え話で、王は王子の婚宴会に招かれていた人たちに家来たちを送りましたが、彼らは来ようとしなく、新たに送られた別の家来たちを無視したり、乱暴したり、殺したりしました。そこで王はその人殺しどもを滅ぼし、その街も焼き払った後、家来たちを遣わし、「町の大通りで見かけたものは誰でも婚宴に連れてくる」ようにしました。それで多くの人々が集まりましたが、その中には善人も、悪人もいたわけです。とにかく、そのように始まった婚宴で、婚礼の礼服を着ていないものが一人いましたが、王は彼の無礼を指摘し、彼の手足を縛って、外の暗闇に放り出すようにと命じました。

実は、今日の福音を黙想しながら、私は二つのことが気になりました。まず一つは「その王は自分の多くの家来達が殺されてしまったのに、それでも婚宴を開きたかったのか。」ということです。確かに、その悲しくて悔しい日に、婚宴は無理なことでしょう。しかし、その婚宴は民の為に用意されたもので、王はその婚宴で、婚礼の喜びを民と分かち合いたかったのです。それほど、王は自分の民を愛していたのでしょう。同じく、神様はイエス様を通して新しい婚宴を催されました。私たちはその新しい宴会に招かれた人達で、善人か悪人かにかかわらず、その過去の布が滅ぼされ、ここに集まっているのです。資格と言ったら、ただ、イエス様を通して現わされた神様の慈しみと愛を信じ、それを自分の生き方としていることだけでしょう。私たちは皆、神様の家来たちの命、しかも、神様の独り子の命によって、この宴に与ることができました。なので、その宴の現場である教会の中において、他の資格について誰に対しても判断できないのです。

私のもう一つの疑問は、「婚礼の礼服」についてのことです。「大通りで、突然見つけられ宴に呼ばれたのに、着替える時間があったのか。」という疑問ですが、実際、礼服を着ていなかった人は、ただ一人だけでした。恐らく、他の皆は婚礼の礼服を着ていたのでしょう。彼らはきっと家来達にその宴に相応しい礼服に着替えたいと頼んだに違いありません。それで皆礼服を着て来ましたが、あの一人だけがそのままでした。つまり、彼は呼ばれたのに何も変わらないままだったのです。私達の為の宴であるこのミサ聖祭も同じです。ミサに相応しい礼服とは、衣服のことではなく、心を新たにすることです。それは、イエス様の御体と御血に溶け入れられている愛と慈しみの心、赦しと和解の心、謙遜と従順の心、感謝と賛美の心でしょう。

さて、食事の前には皆口癖のように「いただきます。」と言いますが、それは私たちの糧となってくれた命への感謝の心の表現だと言われます。では、このミサという素晴らしい宴で、イエス様の御体を頂くにあたり、私たちはどれほどの感謝の心を持っていますか。それに対して、今日の第2朗読で、神様がすべてを備えて下さるので、感謝の心とすべてを任せる心を持つようにと勧めています。それが難しいのは、私たちが永遠の宴の主である神様の招きではなく、朝に咲いて夕べに萎れてしまうはずの、自分の心や頭のささやきに耳を傾けるからでしょう。そのつまらない知識、経験、仕事、役割に拘ったら、神様の招きに傾ける耳は失われてしまうはずです。コロナウイルスのさなかで、皆が新たにならなければならないことを、改めて祈りたいと思います。このミサの中で、神様に感謝しつつ、新しい人となることを祈り求めましょう。

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★9月からの主日ミサスケジュール ⇒ミサスケジュール(0905-1122)A