韓国の教会の場合、カトリック信者となる為には、必ず、教会の「予備信者」として登録し、それから、毎週行われる教会の入門講座に参加しながら、自分の地区世話人や連絡員たちと付き合って、教会の交わりを始めます。また、信者の四つの義務の中で一番大事な義務である「主日のミサ」にも与りますが、それがちょっと厳しくて、例えば、自分が所属している教会でない教会でミサに与ったら、そちらの主任司祭の確認を貰わねばなりません。厳しいでしょう。とにかく、最初、予備信者として登録する際に、全教区公用の公式的な文書を書いて提出することになっています。その文書には、色々な項目がありますが、その中「入教動機」、つまり、どんなきっかけで教会を訪れたかを聞く項目があります。勿論、いくつかの選択肢があって、例えば、「カトリック教会の教えが知りたいので」とか、「心の平和を得るために」とか、或いは、「厳粛な典礼が気に入ったから」などです。ほとんどの予備信者は、この三つの選択の中で一つを選びますが、度々、別の答えを選ぶ方もいます。それは、「周りにいるカトリック信者の姿が気に入ったから」という答えです。司祭になってから、私は洗礼の前、或いは、入門講座の初期の面談のとき、そのきっかけについて聞きますが、特に、その周りの信者の模範に心が動いたという動機を聞くときには、特別な気持ちを覚えます。勿論、他のきっかけに対しても心が熱くなりますが、周りの信者の模範が自分の信仰のモチーフとなったという話を聞いたら、一層嬉しい気持ちになります。信仰のある人としての一言や優れた振る舞いが、それほど力のあるものなのかということが改めて感じられて、そういう気持ちになるのだと思います。
今日の第2朗読の中で、使徒パウロはテサロニケの教会がマケドニアやアカイア州にどれほどの反響を呼び起こしているのかについて話しつつ、パウロ自身が聞いた証言をもっと具体的に表現しています。それは、マケドニアやアカイアの人たちが、使徒たちやテサロニケの教会のことを言い広めているということです。彼らは、例えば、テサロニケの教会の信者たちが、まだ信者ではなかった時、どういう風に使徒たちを迎えてくれたのか、また、信者になってからは、どのように偶像から離れて神様に立ち帰り、神様に仕えるようになったのか、そして、イエス様の再臨をどのように待ち望むようになったのかについてのことです。それらのことは、テサロニケの教会の様子を見つめていた周りの人達の話で、パウロはその話を聞いてとても嬉しくなり、また、力付けられていたのです。先週の主日の説教でも言いましたが、テサロニケの教会はイエス様の再臨を待っていましたが、それが遅くなっているのではという不安や不信仰で悩んでいました。パウロはそのテサロニケの教会を励ますため手紙を書き、その冒頭に、神様がテサロニケの教会の為になさったのを再び思い起こさせたのです。つまり、信仰に基づいた彼らの意識の変化や愛の実践、また、互いに仕え合う様子などこそが、彼らの信仰と希望の正しさの証で、しかも、それが多くの人たちにも響き渡っていると言うことです。パウロはそういうことがイエス様の再臨のための相応しい準備となると語っていたのです。
イエス様は今日、ご自分を憎んでいたファリサイ派の人たちに、一番重要な掟を教えてくださいました。それは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」ということですが、イエス様はこれに加えて、もう一つの掟も強調されました。それは「隣人を自分のように愛しなさい。」ということで、イエス様はこの二つの掟が律法全体と預言者の基であると、はっきりおっしゃったのです。ところが、今日のイエス様の御言葉は「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と言うファリサイ派の人たちの質問に対しての答えでしたが、ここで一つの疑問が起こります。それは「最も重要なこと」と言えば、それはただ一つしかないはずなのに、なぜ、イエス様は二つの掟を言われたのかということです。
イエス様のこの答えには、ある特別な目的があったような気がします。それはイエス様の鋭い批判でもありますが、ファリサイ派の人達は神様に向かっては「心で、精神で、思いで」うまく愛していましたが、隣人に向かっては「自分のように」愛していなかったということでしょう。イエス様は彼らが愛の掟において、半分しか全うしなかったということを指摘する為、わざわざ二つの掟を教えられたと思います。つまり、神様に向かう愛を完成する為には、隣人を自分のように愛さねばならないのに、彼らはその愛を実践しようともしていないと、今日イエス様は彼らを厳しく戒められたのです。イエス様がおっしゃった愛とは、神様の民となる為の資格のようなもので、実際、イスラエルをエジプトから救われた神様はモーセを通してその愛の掟を強く教えられました。今日、私達が聞いた第1朗読の内容もその一つで、神様はご自身の憐れみの御心で、エジプトの寄留者で奴隷だったイスラエルを救われたことを思い起こさせ、イスラエルもその御心に倣うことを教えられました。彼らの苦しみや涙から目を逸らすことを、神様はお出来にならなかったのでしょう。それで、イスラエルをご自分の民とする際に、彼らに隣人に向かう愛と慈しみと憐れみを要求されたのです。それに対してイエス様は福音の他の箇所で、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」、また、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」と教えられました。要するに、神様に向かう信仰と愛は、隣人に向かう愛の実践によって証しされ、また、それで神様の子供となるための資格を満たすことになるということでしょう。勿論、その隣人への愛の基は神様への愛で、私たちの普段の信仰の生活から隣人への愛を学べるのは当然なことだと思います。でも、神様を愛しているか否かの基準は隣人を愛しているか否かということで、ファリサイのように律法や規則、基準などに拘れて、それが真の愛だと考えたら、愛の掟を全うしているとは言えません。
司祭になってから時間が経てば経つほど、私は私達が本当に酷い信仰環境の中で生きているのを感じます。目に見えない神様を信じることや、愛とか憐れみということも、ただ精神的な活動として扱われている現代社会の中で、信仰のある私たちの愛に基づいた言葉や行動は、何と大事なことでしょう。それは私たち自身のためにも、世の中で戸惑いながら生きている人たちのためにも、大切なことに違いありません。全世界がひどい病気で病んでいますが、こうした状況だからこそ、神様と隣人への愛をもっと強めるべきと思うし、こうして皆がこの危機を正しく乗り越えることができるとも思います。それこそ、イエス様を待ち望む人々の真の姿でしょう。そして、もっと多くの人たちと信仰の喜びを分かち合うこととなるのです。今日のミサで、神様が私たちの愛をもっと強めてくださるよう、心を合わせて願いましょう。
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