今年もそろそろ、典礼暦の最後の主日である王であるキリストの祭日に向かっています。この頃の御言葉、特に、福音は終末論的な内容の御言葉、すなわち、再び来られるイエス・キリストとその再臨による神様の永遠の国に関する御言葉となっています。神様はイエス様を通して、人間がどうして救われることができるのかを示されました。それは神様の慈しみと愛によって可能なことで、イエス様はご自分の誕生から十字架の死に至るまでの御言葉と御業を通して、その神様の愛と慈しみを現わしてくださいました。また、復活を通しては、ご自身を救い主として信じる人々が救われることをはっきり証明されました。併せて、イエス様は再び来られ、神様の完全な勝利を収め、死んだ人であれ、生きている人であれ、ご自身を信じるすべての人を神様の永遠の御国に迎え入れてくださることをも約束してくださいました。イエス様はそのメッセージを様々な例えを通して教えてくださり、今日の福音もその一つであります。

今日の福音の例え話には、花婿を迎えに出かけた10人のおとめたちが登場します。その中の5人は愚かで、ともし火だけを用意しましたが、他の5人は賢くて、ともし火と共に余分の油も持っていました。彼女らは一緒に花婿を迎えに出かけましたが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠ってしまいました。ところが、真夜中に花婿が来ているとの声が聞こえて、おとめたちは起きてそれぞれのともし火を整えましたが、残念なことに、愚かなおとめたちのともし火は消えそうだったのです。それで、彼女らは賢いおとめたちに油を分けてくれることを願いましたが、断られ、仕方なく油を買いに店へ向かわざるを得ませんでした。ところが、彼女らが店に行っている間に花婿が着き、賢いおとめたちは花婿と共に宴会に入りました。そして、その後、愚かなおとめたちは戻ってきて、主人に門を開いてくださいと願いましたが、主人は冷たくそれを断り、結局、彼女らは宴会に入れませんでした。最後に、イエス様はこの例え話の結論として、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」と言われました。

このイエス様の例え話の中で、私は先ず、其の10人のおとめたちが用意していたともし火と油について話したいと思います。実は、普通イスラエルの結婚式は、夜、花婿が花嫁の家に来てから始まるので、その花婿を迎えるため、花嫁の友達がともし火を持って花婿を待っているわけです。それで、そのともし火は結婚式に参加している人々、特に、花婿と花嫁にとっては希望と喜びを表す物となるのです。つまり、結婚式が行われるにあたり、ともし火がない、或いは、消しているというのはあり得ないということです。賢いおとめたちはそういったことが起こらないように別の壺に油を入れて準備していましたが、愚かなおとめたちは、ともし火だけしか持っていなかったのでしょう。彼女らは、そのともし火が花嫁と花婿、また、その結婚式に与る人々のための物であることが分かっていなかったとも考えられます。

事実、イエス様の再臨とそれから始まる永遠の御国の宴は、ただ、私たち信仰のある人々だけのためのものではありません。神様はそれを、私たちは勿論、もっと多くの人々のためにも催されるに違いありません。それについてはイエス様の次の言葉がよく教えてくれていると思います。つまり「あなたがたは世を照らす光である。」という言葉です。イエス様のこの言葉と今日のおとめたちのともし火を共に考えたら、確かに、私たち信仰のある人々は自分の信仰を持って、もっと多くの人々に神様の国への希望とその国の喜びのしるしとならなければならないことが分かります。そのしるしとしての役割をきちんと果たすべき私たちが、その希望を失ったり、軽んじたりしたら、自分も神様の国に入れないだけでなく、更に、周りの人々をその国に導くこともできなくなるはずです。

その希望に対して、今日の第2朗読で使徒パウロは、先ずイエス様が死んで復活されたことを確かめ、更に、すでに死んだ人々を始め、生き残っている人々もイエス様に導かれることをはっきり語っています。つまり、私たちの信仰は、ただ、この世の中の様々な宗教の教えやその宗教行為を行うことだけではなく、私たちが真に復活され、神様の国に入れることへの希望に基づいているということです。ですから、復活や神様の国への希望を常に心に留めておき、それを失わないように、神様の慈しみと愛を祈り求めねばなりません。 併せて、イエス様が神様の意向に沿って、いつもそれに従われたように、私たちもそうするべきです。それは今日の第1朗読の知恵の書がよく伝えています。知恵、すなわち、神様は、ご自分をいつどこでも現されますが、それは求める人や愛する人だけに見つかり、また、神ご自身がふさわしいと思われる人々に伝わるということです。言い換えれば、神様はご自分を愛し、また、求める人々、併せて、ご自分が選んだ人々にご自身を現わされ、彼らがこの世の中から神ご自身に出会うことが出来るようにしてくださるということです。その出会いによって、つまり、神様の導きに導かれる人には、希望のともし火が消えることも、油が足らないこともないでしょう。また、その人はいつも愛に満ちているはずです。なぜなら、イエス様が同じ希望を持ち、愛の生き方によってその希望を叶えることを示してくださったからです。そういうわけで、神様を信じ、その国を希望している私たちも、イエス様の愛の生き方に沿って生きるのです。また、その愛の分かち合いによって、私たちのともし火やそれを守るための油も用意でき、もっと多くの人々とその喜びと希望を、この世から分かち合うこともできるでしょう。

新型コロナウイルスのさなかで、なんとか私たちはイエス様から頂いた大事な賜物であるミサ聖祭を再開し、色々なことを工夫しながら、ウイルス以前の形を回復しようとしています。神様がいつか必ず以前のようにしてくださると思います。その恵みの日を希望しながら、私たち一人一人も心を新たにし、イエス様の愛に立ち返るべきだと思います。神様とイエス様の愛を表すミサには、愛だけがふさわしく、それ以外のことはどんなことも邪魔なことでしょう。ミサは真の花婿であるイエス様と信仰のある人々との婚宴でありますので、先ず、私たちが愛に満ちていなければなりません。それこそが、目覚めている信仰人の真の様子に違いありません。このミサの中で、神様への私たちの信仰と希望と愛とがもっと強められるよう、心を合わせて祈りましょう。

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