韓国のカトリック教会では、毎年2回、初聖体を受けたすべての信者さんたちに、赦しの秘跡のための特別なチケットが届きます。それは四旬節と待降節の前に渡され、それをもらった人たちは四旬節と待降節の間、必ず赦しの秘跡を行い、そのチケットを自分の小教区に提出することになっています。今は全国のすべての小教区の事務所が統一された形で印刷し、地区世話人や連絡員たちを通して、自分の小教区の信者さんたちに渡していますが、昔は各小教区の主任司祭がそれを準備し、日にちを決めて、各家庭を呼び寄せてそれを直接に渡しました。ですから、それを受けるためには決められた日、家族皆が司祭館に行って、先ず司祭と口頭試験のような面談を受けねばなりませんでした。その面談の時にはお祈りを暗唱したり、或いは、家族皆が主日のミサにきちんと与っているのかを確認され、司祭からの指導を受けたりする時もありました。その緊張の時間が終わると、司祭から各々チケットをいただき、年間2回の赦しの秘跡を行うことができました。その面談や赦しの秘跡を行うため教会に行く時には、その道がとても怖くて何とかして避けたいと思いましたが、すべてを終えて家に帰る時、その道は本当に明るく感じられました。勿論、それは韓国教会だけの制度で、そのチケットを通して、信者の皆さんが復活祭とクリスマスを相応しい心で準備できるようにするためです。また、主任司祭はそのチケットを通して、自分の小教区の信者さんの信仰の生活を把握し、必要な場合、色々な方法で信仰生活を指導したりします。とにかく、今、私たちは待降節を過ごしていますが、今年は赦しの秘跡を例年通りに行うことが大変難しくなりました。しかし、各々今年の様々なことを顧みながらイエス様の誕生を相応しい心で準備し、喜びの中でイエス様の誕生を祝うことができたら幸いと思います。

今日の福音はマルコによる福音の初めの部分で、旧約の最後の預言者である洗礼者ヨハネについて語っています。特に、第1節はマルコの福音の全体的なメッセージの核心で、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と書いてあります。それは「この本は神様の独り子であるイエス・キリストのよい知らせですよ。」という意味です。これはタイトルのようなもので、例えば、「神の子イエス・キリストの話の初め」とか、「イエス・キリストのことの初め」という風には書かれていません。マルコの福音はわざわざ「福音、つまり、良い知らせ」という言葉を選び、イエス様の御言葉と御業が喜びをもたらすものであることをはっきりと現わしているのです。そして、この文章に続いて預言者イザヤの預言を伝え、次には洗礼者ヨハネについて語っています。つまり、マルコの福音はイザヤの預言をもって、旧約の歴史を纏めながら、神様は洗礼者ヨハネを通してその旧約の歴史を終えられたということを明確にしているのです。

そのイザヤの預言は、今日の第1朗読でもっと詳しく記されていますが、神様はイスラエルの民が積み重ねた罪のために、彼らにバビロンでの苦しみを味わわせましたが、その全ての罪を赦してくださることを伝えています。イザヤは神様のその赦しの喜びをバビロンからの帰国の道に例えて語りました。つまり、最初、イスラエルの民がバビロンへ引っ張られていった時、その道は高い山道や暗い谷がある狭い道でしたが、自分たちの罪が許されて帰るときには、その道が高くても、また、暗くてもそれに脅かされることなく、喜びにあふれて帰ることが出来るということです。併せてイザヤは、その時、神様ご自身が自ら優しい羊飼いとなられ、すべての捕らわれ人を羊の群れのように導いてくださることを伝えました。それはイスラエルの民が、これからは罪から解放され、神様の民としての身分を取り戻すようになるということを表わしています。

そのイザヤの預言を用いた今日の福音は、洗礼者ヨハネのことを語りながら、旧約の苦しい歴史の終わりを宣言しています。ヨハネは自分の役目が後から来られる方を相応しい心で迎えるため、人々を準備させることだと言いました。その準備としてヨハネが行ったのは悔い改めの洗礼で、彼は自分の洗礼によって、皆が新しい洗礼を授ける方を正しく迎えるようにしたのです。その為、彼自身はその方の履物のひもを解く値打ちもないと言い、人々の心がその方だけに向かうようにしました。ヨハネが言ったその方とは、勿論、イエス様であることは言うまでもないことでしょう。事実、ヨハネの水で授けた洗礼は、罪の赦しを得させるためのものでしたが、真の赦しはイエス様によって完成されました。イエス様はご自分の聖なる血を流して、ご自身に従う全ての人を洗ってくださいました。そして、その証として聖霊を授け、聖霊による洗礼を施してくださったのです。そのイエス様がなさった真の赦しのための洗礼を信じるすべての人にとって、イエス様の存在や出来事はただの昔話や偉い人の話ではなく、真の福音、つまり、良いお知らせに違いありません。そのイエス様を信じる人たち、すなわち、教会は常にイエス様の再臨を待ち望んでいます。

今日の第2朗読で、使徒ペトロはその再臨は必ず来ることをはっきりと言いながら、皆が何を準備すべきかについて教えています。ペトロは、まず、神様の憐れみによる忍耐について話しつつ、その再臨の日を疑うことや諦めることなく、その新しい天と新しい地を待ち望むことを勧めています。そして、ただ待つことではなく、傷や汚れが何一つなく、平和に過ごし、神様に認められるよう励むことをも教えています。そのように生活するために必要なのは、勿論、神様の慈しみと憐れみ、また、イエス様の愛に留まることでしょう。互いに愛し合い、赦し合い、支え合うことによって平和を守ることこそ、私たち一人一人の命を愛し、それが滅びることを望まれない神様の御心に適う生き方に違いないと思います。

新型コロナウイルスのさなかで、最近、ワクチンのニュースが私達に希望を与えてくれます。早くもっと完全なものが開発され、安い値段で、国籍や人種、貧富の差にかかわらずに提供されることを望んでいますが、それとは別の観点で、何か惜しい気持ちもあります。それはこの病気と向き合う為に必要な、精神的な要素が欠けているのではということです。ワクチンの開発は大事なことだと思いながらも、科学や技術、また、その利益などに捕らわれて、全ての人の命の大事さとそれを守るべき人間らしい考えなどは、あまり聞こえてこないという気がします。世の中の今の戦いは、ただの病気との戦いではなく、もっと根本的な悪との戦いであることを皆が悟り、互いに戦うことを諦めて、心と力を一つにしたら幸いです。全ての人が今まで歩んできた罪と死の暗い道から離れて、イエス様の愛で輝いている道に立ち返ることこそ、命の主であるイエス様の誕生にふさわしいプレゼントとなるでしょう。それを考えながら、このミサの中で、皆、心を合わせてそういう恵みを祈り求めましょう。

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