今日は主の公現の祭日で、全世界の教会は異邦人にもイエス様の誕生による神様の救いが知らされたことについて、神様に賛美と感謝を捧げることになっています。イエス様の誕生のお祝いは、実は、ローマカトリック教会よりエジプトなどの地域の東方教会の方が先に祝い始めました。そういう東方教会のお祝いの風習がローマカトリック教会に伝わり、今日、全世界の教会は12月25日を主の降誕祭として記念しているわけです。けれども、今でも地域によっては1月6日に主の降誕祭を祝っている東方教会もあるようです。とにかく、今日の主の公現の祭日は「第2の主の降誕祭」と言われるほど、大事で意味深い記念日として認められています。それは先程話したように、神様の救いの神秘がユダヤ人にだけでなく、あらゆる時代のすべての人々に及ぶということです。神様の慈しみと憐れみ、また、愛による救いは世の中の様々な条件や差別を超えて、ひたすら神様を探し求めるすべての人に向かっています。今日は、その救いの招きにどうこたえるべきか、福音や朗読を通して一緒に学びたいと思います。

今日の第1朗読で、イザヤ預言者は異邦人まで神様の救いに招かれていることを語っています。その救いの日、神様は全ての人々のためにエルサレムをご自分の救いの光とされ、多くの人々をその光で導いてくださいます。また、神様は、他の光を消し去ってエルサレムだけを輝かせ、エルサレムが救いの唯一の光となるようになさいます。そして、その時、人々はそれぞれ贈り物を携えて来て、それを捧げ、神様の栄誉が宣べ伝えられるようにします。神様はこのイザヤの預言の通り、イエス様を通して救いの光を大空に上らせ、ご自分の新しい民にその救いの日を告げ知らせました。

今日の福音は、その光に導かれた3人の博士たちのことを語っています。占星術の学者であった彼らは自分たちの国で不思議に輝く星を見つけて、その星のことについて色々調べたはずです。そして、旅立ちを決め、その星だけを頼りにユダヤのエルサレムまで訪ねてきました。きっと彼らはユダヤの王となる人だったら、当然、宮殿におられると思ったでしょう。しかし、それは彼らの常識に過ぎませんでした。そのヘロデの宮殿に、ユダヤの王となる赤ちゃんはいなかったのです。ところが、自分も知らない新しい王について聞かされ慌てふためいたヘロデは、祭司長たちや律法学者たちにメシアの生まれる場所を調べるように命じました。そこで彼らは旧約聖書からベツレヘムを見つけ出し、それをヘロデに報告しました。ヘロデはそのメシアを殺そうとして博士たちをベツレヘムへ送り、正確な場所を調べて自分にも教えるように頼みました。博士たちは再び星に導かれて旅路に出ましたが、それからの道はユダヤという一国の王にではなく、メシアとの出会いのための道のりとなったのです。その新しい希望で彼らはもっと強く励まされたに違いありません。

そしてついに、博士たちはその星の止まった所でそのメシアに会いましたが、そこで彼らは自分たちの目を疑わざるを得ない風景を見、自分たちの常識や知識、豊かな経験など、すべてを砕かねばならないようになりました。そこには華々しい宮殿もなく、立派な人たちもいませんでした。珍しい宝石や美しい飾りなど何一つないところ。そこには馬や牛や羊たちがいるみすぼらしい馬小屋だけがありました。彼らにとって、それら全てはどれほどショッキングなことだったでしょう。しかし、自分たちを導いてくれた星は、煌々と、また、堂々とその所を照らしていました。その光はまるで、彼らの知識や常識などを一つ一つ打ち砕き、また、清くし、新しい魂で物事を見られるようにしてくれるかのようでした。そして、自分たちの思いをすべて捨てて初めて、彼らは真の王であり、すべての人のメシアであるイエス様に会うことができたのです。彼らは新しくて素晴らしい知恵に目覚めましたが、それは神様の慈しみと愛の霊の光に照らされたからでしょう。博士たちは喜びのうちに、自分たちが用意した黄金、乳香、没薬をイエス様に捧げましたが、実は、彼らはもっと尊い賜物をイエス様から頂いたに違いありません。それは神様の愛、そのものでした。

一方、エルサレムの人々はまだ、その光から目をそらしていました。すでに彼らには昔から神様の御言葉が与えられていましたが、彼らにとって、それはただ昔の古いものにすぎなかったでしょう。彼らにとって大事なことは何だったのでしょうか。それは今のこと、つまり、今自分たちが知っていること、今自分たちが持っていることだけがすべてであり、それに拘って神様については思いをかけようとはしませんでした。むしろ、神様の存在が自分たちの邪魔をしていると考え、結局、メシアであるイエス様を殺そうとしたのです。彼らには昔から神様の慈しみと愛の光が照らされていたのに、彼らは世の中の様々な力、知識、経験、名誉などに目がくらんでいました。彼らにはそれらのことがもっと明るく輝く光のように見えたかもしれませんが、実際、それらの光は偽りの光だったのです。

神様はその愚かな人々の代わりに、イエス様を通してすべての民族から新しい民を立ち上がらせてくださいました。それは今日の第2朗読の通りです。神様はご自分の独り子であるイエス様を愛と慈しみの光として私たちを照らされ、私達が神様の救いと永遠の命に与れるようにしてくださったのです。ですから、私達は世の中の暗闇に目がくらんでもいけません。それらのことは私たちの目から真の光であるイエス様の愛を奪い、世の中のことで悩ませたり、さまよわせたりするのです。世の中のこと、しかも、教会の知識や知恵、経験までも、イエス様の愛の前では何でもないものです。そういった塵のようなものにイエス様の愛を奪われたら、私たちの信仰にはどういう意味があるでしょうか。それはただの飾りに違いないでしょう。むしろ、それらを打ち砕いて初めて、私達は愛のイエス様に会えるのです。私達はただ、神様の慈しみとイエス様の愛によって救われた者で、それ以外のことは私たちの邪魔をすることだ、と言っても過言ではありません。

さて、日本の小惑星探査機「はやぶさ2」はすごかったです。軌道に乗って動く小惑星に着陸し、色々な資料を集めて帰還しました。その資料から世界の平和と人々への愛が見つけられたら幸いですが、それがいつできるのか私たちには分かりません。それより、私たち一人一人の心を変えた方がはやいでしょう。はやぶさ2が惑星に着くのは想像できないほど難しいことで、そこからサンプルを集めて帰還することもそうです。しかし、私たちの魂はいつどこでもイエス様の愛に留まり、その愛を汲んで、多くの人々に与えることができます。そういうことを考えながら、このミサの中で私たちがそうなるように心を込めて祈り求めましょう。

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