もう1年以上、全人類は新型コロナウイルスと戦っていますが、更に、これからは新たにワクチンの争いが起こるかもしれないという気がします。教皇様もワクチンや治療薬はすべての人の共同のたまものとして扱われるべきだという風におっしゃいましたが、わたしはすべての人が今の状況をもっと謙虚な心で受け止めなければならないと思います。神様が望んでおられるのは人間の滅びではなく、救いであり、その救いは神様の御業だけによらず、人間同士の相互愛の力をも必要とします。神様のお望みに適って、私たち皆が愛を回復していくことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

さて、今度の緊急事態宣言の期間がさらに延長されて、公開ミサの中止期間も延長されてしまいました。残念なことに、今週の水曜日は灰の水曜日、すなわち、四旬節の始めの日ですが、それから迎える幾つかの主日の公開ミサも行えない状況になりました。四旬節とは私たちの救いのために自らの命を捧げてくださったイエス様の受難と死を共にしつつ、十字架に現れた神様の愛と慈しみを学び、それを実践する期間です。神様は十字架の死によって愛する独り子を失われ、その代わりに、私たちを得られました。それは何と愛深い出来事でしょう。まさしく愛の交換と言えるほどの出来事に違いありません。実際、イエス様はその十字架の御業を全うするために来られ、度々、前もってその聖なる交換の神秘を示されましたが、今日の福音もその神秘を表していて、今日はそれについて黙想したいと思います。

今日の福音で、イエス様は突然ご自分の所にやってきた重い皮膚病を患っていた人を癒されました。イエス様は彼の切なる願いを聞いて、すぐ彼を助けられましたが、その後彼に、誰にも何も言わないようにと命じたうえで、司祭に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために捧げ、人々に証明するようにと指示されました。しかし、彼はそこを去ってすぐに自分のことを人々に告げ、言い広め始めました。その結果、イエス様はもはや公然と町に入れず、町の外の人のいない所に居ざるを得なくなりました。それでも、多くの人々がイエス様のところに訪ねてきたわけです。このように、今日の福音を簡単に まとめましたが、これからはいくつかのことをもっと詳しく分かち合いたいと思います。

先ずは、その重い皮膚病を患っていた人の苦しみについてです。そもそも、昔からそういった皮膚病に罹った人は、律法に沿って人里離れた所で過ごさねばなりませんでした。それはただの隔離ではなく、追放のような規則で、その人は愛する家族や友達から離れ、誰もいない所に独りでいなければならなかったのです。また、定期的に病気がよくなったかどうかを司祭に見せ、確認をもらうために、その度ごとに町や村へ入らなければなりませんでした。考えてみたら、ちょうどその時、愛する人々と出会うことができると思われるかもしれませんが、それも簡単なことではありませんでした。なぜなら、そういった病人はもはや罪人のように扱われていたからです。しかし、今日の福音の病人はその寂しい場所から離れて、イエス様がいらっしゃるところに訪ねてきました。彼はイエス様のところに来るまで、どれほど大きな不安と恐怖を抱かねばならなかったでしょう。きっと、彼は多くの人々の冷たくて怖い眼差しを感じたはずです。もしかするとイエス様から断られるかもしれないという恐れもあったかもしれません。けれども彼は自分の気持ちを奮い立たせ、勇気と信頼をもってイエス様のところにやって来ました。そして、「御心ならば」から始まる短い言葉で、イエス様に自分の願いを打ち明けました。その「御心ならば」という言葉は自分をイエス様に任せるという意味でしょう。その「御心」とは何でしょうか。

それはイエス様の憐れみ深い心なのです。イエス様は彼を深く憐れんで、手を伸べて彼に触れ「よろしい、清くなれ。」とおっしゃいました。誰もが触りたくない重い皮膚病なのに、イエス様はそれを気にもされず、言葉だけでなく、手を伸べて彼の傷に触れるという実際の行動で彼を癒してくださったのです。そのイエス様の憐れみ深い御心によって彼は治りましたが、その後、イエス様は律法に沿って、その病気が無くなったことを証明するようにと命じられました。でも、彼はその指示に従わず、多くの人々に自分のことを告げて回り、結局イエス様は町に入ることが出来なくなりました。でも私は、彼がイエス様の指示に従わなかったからと言って、イエス様がその人に再び病を患わせたとは思いません。彼は大きな喜びのあまり、そのように振る舞ったでしょう。イエス様も彼がご自身の指示通りに行わないかもしれないと思われたはずです。ここで、素晴らしい神秘が現れます。イエス様は、皮膚病のために人里離れた寂しいところにいた彼の代わりに、イエス様ご自身がそのような場所に居ることになさったのです。それでも、人々は四方からイエス様のところに集まってきました。それは、人間がそれほど神様の憐れみと愛を渇き求めているということの表れでしょう。こうして、イエス様は今日の第1朗読で、神様に背いて罪を犯した人の苦しみ、つまり、神様から離れざるを得なくなった人の苦しみと悲しみを癒し、また、神様ご自身がその見捨てられた人たちを再び受け入れてくださることを表されたのです。神様の憐れみ深い御心の前で、だれ一人見捨てられたり、隔てられたり、また、いじめられたり、無視されたりするのはあり得ないことでしょう。それはイエス様の命の代わりに、すべてを救おうとされた神様に背く、とても重い罪になるはずです。それこそが今日の福音の重い皮膚病よりはるかに深刻な病気に違いありません。

教会はそのイエス様に倣って生きる人々の集いで、私たちは、「ただ独りの神様」の子供たちであり、兄弟で、しかも皆、弱い人たちなのです。だからこそ、教会は常に、人を苦しめる一切の差別や偏見、無視やいじめと戦い、それを打ち砕いて、イエス様の愛のうちに一つとなるべきです。今日の第2朗読で使徒パウロが勧めているように、何をするにしても、神様の栄光を現わすために務めることが大事です。その神様の栄光とは、善な思い、言葉、行いによってすべての命を支え、また、守ることで、それによって私たちは自分が神様の子であることを証しすることになるのです。

新型コロナ感染症の初期から、すべての人は新しいワクチンと確かな治療薬に希望をかけています。でも、もっと根本的で優れたワクチンと治療薬は、憐れみの心、また、愛の心だと思います。それを心に留めながら、私たちを始めすべての人が憐れみと愛の心を回復することができるようお祈り致します。

原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 2021年2月14日姜神父様のお説教

★Please click here for the FURIGANA version)  ⇒ しばらくお待ち願います。

第29回「世界病者の日」の教皇メッセージ(21.11.1)はこちら =>https://www.cbcj.catholic.jp/2021/01/29/22035/

☆彡新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り ⇒ COVID-19inoriB7i