韓国にはミリネと呼ばれる聖地があります。そこには韓国の最初の神父である聖金大建(キムデゴン)アンデレのご遺骨の一部が安置されています。元々は、金神父様のお墓がありましたが、その後、そのご遺骨は神学校や殉教地などにそれぞれ安置され、今も信仰の模範として敬われています。金神父様は1846年、首をはねられて殉教しましたが、そのご遺体は40日間現場に放置されていました。それを悲しんだ信徒共同体は何とかして神父様のご遺体を運んで葬ろうと話し合い、李敏植(イミンシク)ヴィンセンシオという若者をその地に送りました。彼は刑場から60キロメートルの距離を夜間にだけ歩いて、一週間後、無事ミリネに着き、そこに神父様を葬ることができましたが、道中でのこんなエピソードが伝えられています。神父様のご遺体を背中に担いで歩いていた彼は、ある夜、虎に遭遇して、命の危機に見舞われました。その時、彼は虎に向かって大声で、「今、わたしが誰を運んでいるのか、君は分からないのか。」と叫びました。すると、虎は静かにその場から去り、彼は無事に神父様のご遺体を守ることができたそうです。一獣にすぎない虎さえも、命を捧げて信仰を守った神父様と、その尊い亡骸を命懸けで運んだ勇者を見極めたのでしょう。自分の命を捧げものとした金神父様と、そのご遺体を神様への捧げものとして、命をかけて運んだ李ヴィンセンシオ。お二人は死を持って、或いは、勇気を持って神様への信仰と愛を証しし、とても清い捧げものとなったと思います。ミサの再開と中止が繰り返されている今の状況の中で、怠けがちな私たちの信仰を改めて引き締めねばならないと思います。こういう状況だからこそ、神様への信仰と希望、愛を強くして、それらに満ちた心と愛の生活を神様への捧げものとして備えるべきです。
今日の第1朗読で、アブラハムは自分の息子イサクを焼き尽くす捧げものとして神様にささげようとしました。それは神様の命令に従って行われたことで、神様は彼の信仰を試そうとしてそういう指示を下されたのです。アブラハムにとってイサクは、まるで、目に入れても痛くないほどの大事な息子であり、しかも神様の約束のしるしでもありました。神様はかつて、アブラハムに大きな土地と、海辺の砂や空の星のように多くの子孫を約束してくださいましたが、その約束の証としてイサクを授けてくださったのです。そんな神様が突然そのイサクをささげなさいと言われて、アブラハムの心はどれほど痛んだでしょう。何も知らないまま、父と一緒に旅路に就いたイサクにとってはとても楽しい旅路だったかもしれませんが、アブラハムは色々な悩みや葛藤の中で足を運んだに違いありません。そしてついに、神様が指示された山の上で、アブラハムは祭壇を築き、自分の息子を殺そうとしました。その時、アブラハムの信仰を確認された神様は御使いを送ってアブラハムの行動を阻みました。そして、一匹の雄羊を与えて、それをイサクの代わりにささげるようにとされました。その後、神様はアブラハムの信仰を誉めながら、改めて彼に大きな祝福を与えることを確認させてくださったのです。
考えてみたら、アブラハムにはイサクが生まれる前、神様とのあるやり取りの経験がありました。それはソドムとコモラのためのことで、その時彼は、その都に十人だけでも正しい人がいたら、神様の懲罰を取り消してくださるよう神様と約束をしたのです。そんなアブラハムでしたが、今度のこと、つまり、自分の息子のためには何も逆らわず、神様のその残酷な命令に従いました。アブラハムがそうしたのは、神様への強い信仰があったからでしょう。彼は神様が自分を試されるかどうかにもかかわらず、ひたすら神様を信じ、また、自分の息子の命を守ってくださることを確信していたのです。神様はその信仰をご覧になり、かつて結んだ契約通りに、彼への祝福をもっと豊かにしてくださいました。
今日の福音で、イエス様は3人の弟子達を連れて高い山に登り、そこで神様の独り子としての真の姿を見せてくださいました。その時、モーセとエリヤが現れ、イエス様と話し合いましたが、その話はイエス様の苦しみと死に関することでした。言い換えれば、イエス様はご自分の悲惨な死と復活の栄光を、前もって示されたのです。それは神様の救いの計画で、神様は愛する独り子を新しい契約の為の捧げものとして捧げようとなさいました。しかし、それが分からなかったペトロは口をはさんで、イエス様と自分達がその素晴らしい所で留まることを願ったわけです。その時、神様は「これは私の愛する子。これに聞け。」という声で彼の愚かさを悟らせました。ペトロはただ人間的な心で、「今、自分が味わっている幸せや平安」に留まろうとしたのでしょう。でも、イエス様には進まねばならない道があり、その道はイエス様しか歩けない道でした。それはご自分の命を捧げて神様の救いの御業を全うすることで、それに伴う苦しみは言葉では表現できないほどのことだったのです。それをすでに知っておられたイエス様は、弟子達の弱い信仰と人間的な恐れを無くして、彼らを励ます為、今日、彼らの目の前でイエス様ご自身の真の姿を見せてくださったわけです。
神様はイエス様を救いの捧げものとして捧げ、その代わりに、すべての人を罪と死から救ってくださいました。その契約は新しい契約で、その契約に与る人は誰でもイエス様の永遠の命にも与れるのです。ただ、条件があります。それはイエス様を通して教えられた神様の言葉に耳を傾け、また、それに従って生きることです。神様はイエス様の死をもって私達への愛を証しされ、その復活を通して私たちに永遠の命を約束してくださいました。イエス様の教えは「神様を信じ、また、愛すること」と、人間同士が「互いに愛し合うこと」で、それこそが、私たちが心を込めて守るべき神様の掟でしょう。イエス様の教えの他は、私たちを罪の道に導いてしまうと言っても過言ではないと思います。
今日の第2朗読は、神様がご自分の大事な独り子を与えられるほど、私達を愛しておられることを語っています。その愛にこたえる為、アブラハムはイサクを惜しまなかったし、イエス様はその愛を証しする為にご自分の命を捧げました。また、全ての殉教者や聖人も同様でした。私達も神様と隣人への愛を持って、この信仰の道を歩まねばならないと思います。ちなみに、ミリネとは天の川という意味です。信仰人の道はこの世の目で見たら苦しみの道のように見えるかもしれませんが、それは天の川よりもはるかに美しい道に違いありません。二俣川の丘を上る信者の皆さんの心に、信仰と希望と愛が神様への捧げものとして備わることができるよう、また、どんな状況に遭っても、この愛と信仰の道を歩むことができるよう、お祈り致します。
☆原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 2021年2月28日姜神父様のお説教
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★2021年四旬節教皇メッセージはこちら =>https://www.cbcj.catholic.jp/2021/02/15/22109/
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